かおるの雑記帳 ボロをまとった高慢ちき
内山 薫
日本バプテスト宣教団 池田キリスト教会会員
ローマ時代、ギリシャにディオゲネスという哲学者がいたそうです。いつもボロをまとい、樽を住処としていたとも伝えられています。この人に関する逸話の中に、穴のあいたボロ以外は着たくないと大騒ぎをしたという話があります。ボロを着ることは彼にとって自分の無欲さを示すためのパフォーマンスだったので、それを上等な衣と取り替えられたのでは困ってしまったのです。そんなディオゲネスについてアリスティッポスという人がこう言ったといいます。「穴のあいた彼のぼろの長衣のどの穴からも虚栄がのぞいている。」
この逸話を読むにつけ、人間の弱さ・限界をつくづくと思わされます。私たちは、無欲であろうとしながら、それを誇示したい欲に取りつかれたり、謙虚そうな態度の裏に優越感を隠し持っていたりする存在です。その上、他人のウソは鋭く見抜けても、自分の欺瞞にはなかなか気づくことができません。
あるとき友人が、自分を義人だと自任して優越感に浸っているパリサイ人と、心砕かれ「罪人の私をあわれんで下さい」と胸をたたいて祈る取税人の話(ルカ18:10―14)から、こんなことを言ったことがあります。「みんなこの箇所をうなずきながら読むけれど、大抵の人は、自分は取税人であってもパリサイ人ではないと思ってる。」私はドキッとしてしまいました。私もパリサイ人ではないと思い上がっていた人間の一人だったからです。
私たちはともすると良い人間になろうとか、立派に生きようとか、理想の自分に近づこうと背伸びをしがちです。それはそれで悪いことではないでしょう。が、本当の恵みは、実は自分がひどく貪欲で、偽善に満ちたパリサイ人であると気づく、その失望感の内に隠されているような気がします。私たちは親切なふり、謙虚なふり、愛情深いふりをすることはできます。しかし、自分の努力で愛を湧き起こしたり、人格の変容を引き起こしたりすることはできません。ただそんなお手上げの状態で神様にすがる時、「私の」力や努力の及び得ないところに、「神様の」力が働かれるのでしょう(その時、みこころならば人格の変容も起こるでしょうし、起こらないかもしれません)。どんな結果であれ、私たちはただ神様に信頼して委ねていけるよう、祈り続ける者でありたいと思います。