こころに写るもの 7 守・破・離

こころに写るもの5
岩渕まこと

 守・破・離、とはある方から聞いた言葉です。今は主に武道家が使う言葉のようですが、もともとは千利休がお茶の修行の段階を表すために使った言葉のようです。まず「守」とは師の教えの通りに学び身につけてゆく段階で、形にはまる時と言っても良いでしょう。

次の「破」とは自分自身で工夫することを学ぶ段階で、師から学んだ形を破りながら、オリジナルのスタイルを発展させてゆく、まさに「形破り」の段階です。私が興味を持ったのは次の「離」でした。これは師の元から離れ、ひとり立ちをしてゆくという段階ですが、私は意識して「離」ということを考えたことがありませんでした。

もしも「守」と「破」の段階で確実なものが身についていなければ、「離」はかなり危ういということになってしまいます。しかしどの分野でも本当に個性が発揮され、なおかつ一人前と言われるようになるのは、この「離」の段階に達する必要があるでしょう。そこで「守」は下手、「破」は上手、「離」は名人と言われるようです。

千利休はこの三つの段階に常に「本」が必要であると教えています。それは破っても、離れても本質を忘れるなという意味です。

私は歌やギターを教えますが、時々教えることの難しさに悩み込んでしまいます。しかしこの守・破・離のことを考えるならば、学ぶ側に心地良いものを提供する必要がないことに気がつきます。自分自身が会得したものを、頑固に提供し続ければ良いということになります。

でもこれは教える人間にしっかりとした形が形成されていることが前提ですので、まずは自分の形の点検が必要かもしれません。守・破・離、とはある方から聞いた言葉です。今は主に武道家が使う言葉のようですが、もともとは千利休がお茶の修行の段階を表すために使った言葉のようです。

まず「守」とは師の教えの通りに学び身につけてゆく段階で、形にはまる時と言っても良いでしょう。

次の「破」とは自分自身で工夫することを学ぶ段階で、師から学んだ形を破りながら、オリジナルのスタイルを発展させてゆく、まさに「形破り」の段階です。私が興味を持ったのは次の「離」でした。これは師の元から離れ、ひとり立ちをしてゆくという段階ですが、私は意識して「離」ということを考えたことがありませんでした。

もしも「守」と「破」の段階で確実なものが身についていなければ、「離」はかなり危ういということになってしまいます。しかしどの分野でも本当に個性が発揮され、なおかつ一人前と言われるようになるのは、この「離」の段階に達する必要があるでしょう。そこで「守」は下手、「破」は上手、「離」は名人と言われるようです。

千利休はこの三つの段階に常に「本」が必要であると教えています。それは破っても、離れても本質を忘れるなという意味です。

私は歌やギターを教えますが、時々教えることの難しさに悩み込んでしまいます。しかしこの守・破・離のことを考えるならば、学ぶ側に心地良いものを提供する必要がないことに気がつきます。自分自身が会得したものを、頑固に提供し続ければ良いということになります。

でもこれは教える人間にしっかりとした形が形成されていることが前提ですので、まずは自分の形の点検が必要かもしれません。