これって何が論点?! 第11回 「集団的自衛権」って何?

星出卓也
日本長老教会
西武柳沢キリスト教会牧師。
日本福音同盟(JEA)社会委員会委員、日本キリスト教協議会(NCC)靖国
神社問題委員会委員。

安倍首相が「集団的自衛権」を持つことを目指している、というニュースを見ました。それって、どうなるってことですか? 4月号でも出てきましたが、「集団的自衛権」について教えてください。
安倍首相は安保法制懇の「限定的に集団的自衛権を行使することは許される」との報告書を受けて、二〇一四年五月十五日の記者会見で、他国の攻撃から国民を守るためには「集団的自衛権」が必要であると強調しました。
記者会見で首相が挙げた例は、「アジアやアフリカでボランティアをしている若者たちが攻撃されても自衛隊は救うことができない」「紛争国から逃れようとしているお父さんやお母さんやおじいさんやおばあさんや子どもたち。彼らが乗っている米国の船を、今は守ることができない」といった内容です(首相官邸HP要約)。
しかし実は、この問題の論点は「自衛権の有無」ではなく、「自衛権をどこまで認めるか」なのです。
なぜなら、「集団的自衛権」で認められるのは「こちらからの攻撃」だからです。これまでの〝専守防衛〟(攻撃されたときは反撃する)から〝攻める自衛〟へと、自衛権の範囲を一段と拡大しようとしているのです。

Q政府見解の自衛権行使の範囲は、どこまで?
日本国憲法制定当初、吉田茂首相は第九条の適用範囲について「正当防衛権を認めるということ、それ自体が有害」という見解でした。しかし冷戦が激化し、一九五〇年一月のマッカーサー元帥による「日本国憲法は自衛の権利を否定したものではない」との発言を受け、同年に日本政府は警察予備隊を発足、一九五四年には防衛庁を設置、自衛隊を発足します。吉田首相は〝武力を永久に放棄〟との九条の解釈を「自衛隊は日本が攻撃された場合に限って必要最小限度の反撃を行うもの」として、大きく解釈変更します。
その後も、世界各地で戦争が勃発する中、軍備を保持し海外派兵しようとする働きかけが続きますが、一九八一年、鈴木善幸首相の内閣閣議で、憲法九条のもとで許容される自衛権は「我が国を防衛するため必要最小限度の範囲」であり「集団的自衛権は、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」との見解が再確認されます。これは「八一年見解」と呼ばれ、その後の自衛権の解釈とその限界を規定するものとなりました。一九八二年以降の中曾根内閣、二〇〇一年以降の小泉内閣で米国との軍事協力、海外派兵が特に強く要請されますが、そんな中でも「八一年見解」は、自衛権の範囲を専守防衛に限定し続け、現在に至ります。ところが安倍首相は、国連憲章五十七条「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」を挙げて、自国の防衛は主権国の権利であると語り、現在の〝専守防衛〟の枠を取り払って、自衛権の行使の範囲拡大をしようとしているのです。「攻める自衛」が九条の原則に本当にかなうのか、もっと議論されるべきです。記者会見での首相の説明は、この点を意図的に隠しているようにも思います。
私たちは特に、六月二十二日の通常国会会期末まで、安倍内閣の動向を注意して見ていく必要があるでしょう。

Q「自衛権」なのに「攻撃する権利」なのですか?
「自衛権」は非常に広い概念なのです。集団的自衛権は「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」(一九八一年五月二十九日国会政府答弁)です。日本が攻撃されていなくても、同盟国が行う戦争に連帯し、他国を攻める権利を有します。さらに、まだ武力攻撃されていない段階でも、将来的に自国に危機が訪れるのを予防するために攻撃することを「先制的自衛権」といい、これも「自衛権」の一つです。実際、国際紛争では「先制的自衛権」の適用が頻繁に主張されます。国連安全保障理事会も明確な適用指針を必ずしも与えていないため、「自衛」の名のもとで先制攻撃が行われる問題も多発しています。自衛権行使の範囲の判断基準には一貫性がなく、安全保障理事会加盟国の事情に左右されやすいのが実態です。
安倍首相は「あらゆる事態に対処できるからこそ、そして、対処できる法整備によってこそ抑止力が高まり、紛争が回避され、我が国が戦争に巻き込まれることがなくなると考えます」と主張しますが、攻撃する権利を認めたなら、限界も歯止めも効かなくなることでしょう。どの国も「自衛権行使」という大義のもとで攻撃を行うのです。「攻める自衛」への転換が「名目自衛・実質侵略」に道を開き得ることを、私たちは歴史から学ばなければなりません。