これって何が論点?! 第4回 「君が代問題」ってなに?
星出卓也
日本長老教会
西武柳沢キリスト教会牧師。
日本福音同盟(JEA)社会委員会委員、日本キリスト教協議会(NCC)靖国
神社問題委員会委員。
前回、国民を統合するために、天皇を〝現人神〟とする〝国家神道〟がつくられた歴史を聞きました。「君が代問題」も、それと関係しているんですか? クリスチャンは歌っちゃダメなの?
国旗や国歌はキリスト教国でも、どの国でもあります。なら日本の国歌となった「君が代」(一九九九年に国旗国歌法で法制化された)を歌うのに何が問題なの? と思う人は多いでしょう。「学校行事で君が代を歌わないクリスチャンの教師が処分を受けた」というニュースを聞いて、なぜ処分を受けてまで不起立するのか理解できないと思う人もいるでしょう。この問題を考えるには、「天皇の神格化」が進められた明治時代の歴史を振り返る必要があります。
Q天皇は、どのようにして神にまで高められていったの?
伊藤博文をはじめとする明治国家建設者たちは、国民全体を統合する「国家の機軸」を置くため、天皇を神とする〝国家神道〟を国教にしようとしたことを前回見てきました。これに対して批判的な人々もいました。初代文部大臣を務めた森有礼は、伊藤博文の下で天皇中心の教育政策を積極的に導入した人物ですが、西洋のような政教分離を重んじる考えで、天皇の神格化には慎重でした。しかし一方で、やはり天皇神格化によって、政府の権威を絶対的なものにしようという勢力は優勢でした。明治憲法が発布される一八八九年二月十一日、ちょうどその日に、森有礼は国粋主義者(欧化政策に反対する人々)に暗殺されます。以後、明治憲法四条に記された「憲法の規定の下に天皇の統治権を制限する」という理念は、日に日に空文化され、天皇神格化はますます進められていったのです。
Q天皇神格化は、どのように国民に浸透していったの?
近代日本では、〝国家神道〟を「国教」(宗教)とはせずに、「臣民の道徳」「儀礼」として、宗教ではないと装っている点がポイントです。国民に対して、その〝天皇を神とする道徳〟を教化育成する場となったのは学校教育でした。
明治憲法制定からわずか二年後、一八九一年六月に文部省令「小学校祝日大祭日儀式規定」が出され、紀元節(2月11日)、天長節(12月23日)、元始節(1月3日)、神嘗祭(9月17日)、新嘗祭(11月23日)には、学校長・教員・生徒一同が式場に参集し、天皇の御真影(明治天皇の公式な姿絵)に対する最敬礼、「教育勅語」(天皇への忠孝を全うすることを国民の最高善とする道徳訓)の奉読、学校長による教育勅語についての訓話、大祭日にふさわしい唱歌の合唱などの儀式を行うことが義務づけられます。同年七月には御真影への最敬礼の作法、十二月には儀式にふさわしい唱歌について(「君が代」含む)、その後も細かい儀式の作法が規定されます。学校長が「教育勅語」を朗読する際は、礼服・白手袋、読み上げるイントネーションまで定められ、聴く生徒はもちろん直立不動の姿勢です。やがて、各学校の敷地内に御真影を安置する「奉納殿」が建造され、前を通るときは、最敬礼が義務づけられるようになりました。こうして、天皇を神と礼拝することが「道徳」「儀礼」の名で徹底して義務化され、教化されるのです。まさに御真影は神の像、教育勅語は『聖書』、訓話は説教、君が代は讃美歌の役割です。皮肉なことに、天皇の神格化を批判した森有礼が西洋のキリスト教礼拝をモデルに導入した学校教育政策が、素直な子どもたちの心に、天皇を神とする信仰を植え付ける役割を果たしていったのです。
Q天皇拝礼の儀式を拒否する自由はなかったのですか?
戦前戦時下では、御真影への最敬礼、宮城遥拝(皇居の方向への敬礼)、さらには神社参拝までもがすべての国民に強制され、それに従わない自由はありませんでした。
明治憲法にも「信教の自由」は記されていましたが、天皇を拝礼することは宗教ではなく、日本臣民が身に着けるべき必須の道徳であり当然の義務だ、とされたためです。もし、異議を唱えようものなら、「村八分」どころではない、社会のどこにも居場所がない事態に追い込まれたのです。
Qでは現代において、国旗国歌の何が問題なのですか?
戦後、学校教育の場で御真影への最敬礼・宮城遥拝・神社参拝の強制はありません。しかし、「御真影拝礼・神社参拝など」から「国歌斉唱・国旗掲揚」に姿が変わっただけで、強制、異分子排除は起こっているのです。今日の「国旗国歌の尊重は、国民の当然の義務だ」という強制には、「宗教ではなく儀礼なのだから、従わない自由はない」とする、戦前と同じ理論が隠されており、それに従わない者の排除が行われていることを見抜かなければなりません。
国旗も国歌もどの国でもあるものです。しかし日本においては、国旗や国歌が本当に宗教ではないと言えるでしょうか。君が代の歌詞は、「天皇のお治めになる御世が永遠に続きますように」という天皇への讃美歌とも言える内容です。また、日章旗(日の丸)は天照大神を象徴的に表しています。これをあえて法制化し、〝処罰までして強制する”のはなぜでしょうか。聖書の神だけを唯一の神と信じるクリスチャンや教会は、この「強制」に対して、「イエスが主である」という信仰をもって応える使命があるのです。天皇神格化を日本国民の必須の在り方とし、例外は認めないとする、戦前と同じ思想統制、信仰強制が始まっていることを見抜かなければなりません。ここに、天皇制を日本国民の必須の在り方とし、例外は認めないとする思想統制、信仰強制が始まっていることを見分けなければなりません。
Q君が代強制が問うていることは?
君が代強制の問題が、私たちに問おうとしていることは何でしょうか。それは「国のために国民がいる」という国の在り方、国民の存在価値への転換ではないでしょうか。思想信条・信教の自由においても、天皇を頂点とする国家体制にかなった範囲内でしか自由は認めないというテーゼが、君が代強制を通して問いかけられているのではないでしょうか。この問われているテーゼに対して、私たちはアンチテーゼを応える必要があるのです。国というものが個々人の良心にまで介入し、強制しようとも、私たちが人である限り、その一人の人格を踏みつぶすことはできないということ。キリスト者としての信仰を、否定するどのような命令も、地上の権威であろうと強制し、従わせることはできないということ。むしろ神が立てた地上の権威の役割は、日本国憲法が規定するように、個人の人権を守るために神によって立てられているのではないでしょうか。この時代に問いかけられている問いに対して、日本に立てられた教会は応えるべき使命があるのではないでしょうか。
推薦図書
日本キリスト改革派教会宣教と社会問題に関する委員会
『「日の丸・君が代」問題を考えるシンポジウム』(一麦出版社)
岡田明著『まんがで読む日本キリスト教史・タイムっち』(キリスト新聞社)
君が代強制問題に避けては通れない近代天皇制の歴史を簡潔にわかりやすくまとめています!