これって何が論点?! 第7回 「初詣」には行っちゃダメ?
星出卓也
日本長老教会
西武柳沢キリスト教会牧師。
日本福音同盟(JEA)社会委員会委員、日本キリスト教協議会(NCC)靖国
神社問題委員会委員。
クリスチャンになるまでは毎年、お正月には初詣に行っていたのですが、どうしたらいいでしょうか。初詣には、行ってはダメなのですか?
Q「初詣」は、だれに祈りをささげているのか。
初詣に行くことを、大半の日本人は「当然のこと」と考えているようです。「クリスチャンなので初詣はできない」と言うと、大勢の人が「えっ!」と驚き、ある者は「ふ~ん」と奇怪な目で見、ある者はあからさまに眉をひそめ、またある者は「習俗なのだから、気にしないで参拝しなさい」と強要する。こんなことを皆様も経験されたことでしょう。
家族や友人、職場の人と「一緒に初詣に出かける」ことは、一体感や絆を確かめる意味が込められているようで、「私はしません」と言うと、せっかくの行事に水を差し、和を乱す者として実に気まずい思いをすることがあります。
葬儀では故人への焼香があり、建設現場では地鎮祭が行われ、国や市の公的行事でも死者の霊を慰めるという「慰霊」のことばが当然のように使われます。大多数の日本人にとっては「習俗化された当然のこと」でも、クリスチャンにとって、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えて」(ローマ1・23)しまうことは、聖書が教える信仰と対立する行為です。困ったことに、日本社会はこれらを「習俗」とは考えても「宗教」とはあまり意識せずに、宗教を押し付けているという自覚がありません。しかし、どんなに慣習化されても宗教は宗教です。無宗教という日本人のなんと宗教的なことか。宗教に寛容と言われる日本社会が、習俗として行われている宗教行事を辞退することに、なんと排他的なことか。
Q 偶像の神が存在しないなら、参加してもいいのか。
聖書を読むと、これは日本だけでなく、どの時代のクリスチャンも直面している問題のようです。パウロが伝道したギリシヤのコリントの町では、神々の像にいけにえをささげることが習俗として行われ、いけにえとしてささげた肉がふるまわれる地域の祭りが盛大に行われていました。
「偶像の神は存在しないのだから、宴会に参加しても何の問題もない」と主張するコリントの教会員に、パウロは諭します。「ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。……私は何を言おうとしているのでしょう。
偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。
私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです」と(第一コリント10・14~21参照)。
ここに、キリスト教信仰の独特な本質がよく表れています。キリストを信ずるとは、「キリストの血」「キリストのからだにあずかること」つまり、主と一つに結ばれること。それは、夫婦が一つに結ばれる結婚の契約と同じなのです。結婚の契約は、第三者の介在を許さない独占排他的なもので、浮気をしながら夫婦であり続けることはできません。
預言者ホセアが姦淫の妻ゴメルのために苦しむ姿が、神が偶像をおがむ民のために悲しむ痛みと重ねられているとおりです。聖書は偶像礼拝を「姦淫の罪」と呼ぶのです。
ギリシヤも日本と同じように、「御利益があればどの神でも、どの信仰でもいい」という八百万の神の宗教観でした。しかし聖書は、自分の全存在をかけて唯一の神を愛するよう求め、モーセの十戒の第一戒でも、ヤハウェの神と同時にほかの神々にも仕えることが禁じられました。
多神教文化の中で「主にも従う」という信仰ではなく、「主にのみ従う」というキリスト教信仰に生きるとき、クリスチャンはそれぞれの地域において、自らの異質性・独自性と向き合う必要があるのです。
Q 「~しない」「~できない」が示す道とは。
初詣に行かない、焼香をしない、慰霊をしないなどの「~しない」「~できない」ということは、消極的で、何でも禁止する後ろ向きなことのように見えますが、実は「イエスは主である」という真の信仰をこの異教社会にあって告白するという、実に積極的な意味があります。違いが現れることは、福音宣教の可能性が閉ざされるのではなく、むしろ、福音の本質が現されること。多神教信仰を当然とする社会の中で、福音の真理を態度で証しすることなのです。
地域や家庭や職場にあって、キリスト教信仰の自由を得るには、大きな忍耐と時には抵抗や戦いが求められるでしょうが、その労苦の道は、主と一つに結ばれた主の民であるという祝福の道なのです。たとえ社会からの疎外感を味わっても、この地に属する以上に主に属する民である実感が増し加えられると、多くの先人たちが証ししています。
初詣などの宗教行為を見ると、人は神のかたちに創造され、創造主との交わりを深いところで渇望しているという本質的なうめきを思います。クリスチャンが創造主のみを礼拝する姿こそ、そのうめきに応える唯一の答えなのです。
ジャン・カルヴァン著、渡辺信夫訳『カルヴァンキリスト教綱要改訂版第Ⅰ・Ⅱ篇』
(新教出版、2007年)特にⅠ篇1~5章、10~12章、Ⅱ篇8章
絶版なのですが、日本の冠婚葬祭、宗教行事を扱った本として、井戸垣彰著『この国で主に従う』、
小畑進著『キリスト教慶弔学辞典』(ともに、いのちのことば社)もおすすめです。