しあわせな看取り
―果樹園の丘の訪問看護ステーションから 第4回 今を生きる
岸本みくに
惠泉マリア訪問看護ステーション所長
札幌キリスト召団 余市教会員
大阪、堺市生まれ。
幼い時に父を交通事故で亡くし、母の、「手に職をつけ早く自立するように」との教育方針で、子どもは3人とも医療系に進んだ。卒後15年間大阪の淀川キリスト教病院に勤め、その後、地域医療や福祉、キリスト教の共同体などに関心を持ち、各地をうろうろ。2008年より現在の惠泉マリア訪問看護ステーションに勤務。現在同ステーション所長。北海道に住んで20年、大阪弁と北海道弁のバイリンガル。
最期まで回復をあきらめないで抗がん剤治療をあくまでも続けるか、治療をやめて重荷を下ろすか、本人と旦那様の意見が一致せず、間をどう調整すればよいのかと非常に苦労したことがありました。
当時七十三歳の藤原さん(仮名)は、四年前にすい臓がんと診断されたときはすでに手術不能の状態で、ありとあらゆる抗がん剤を使用して今に至りました。「先生は、手術不能のがんを薬で四年ももたせてくれたのだから、まだまだどんな高い薬でも使って治療してほしい」というのが旦那様のお気持ちでした。
訪問看護の導入は、大腿骨骨折後のリハビリをとのケアマネージャーからの依頼でした。当時、すでに藤原さんの状態は、一日中パジャマでベッドにぐったりと横たわっており、食事もわずかしかのどを通らず、両足は腫れ上がってパンパン、体毛は頭髪だけでなく眉毛からまつげに至るまで抜け落ちて、手足の皮膚はぼろぼろ、抗がん剤の副作用が強く全身に出ており、リハビリどころではありませんでした。「贅沢は言わないから、せめてあと十年はもたせてほしい」というのが旦那様の口癖でしたが、この状態での生活は、病気と闘うご本人にとってはもう限界なのでは、と私には思えました。認知症も発症しており、ご自分の気持ちを表現することが難しく、ご本人は旦那様の勢いに押されているという印象でした。
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ある日、珍しく旦那様が不在で二人きりになりました。治療について問いかけたところ、「もういやだ! 私はお父さんが言うほど長生きしたくない」と珍しく自分の意思をはっきりと語り、泣き出しました。ここからいよいよ看護師のAdvocator(代弁者)としての役割です。旦那様だけでなく、娘さんたちとも連絡を取り、ご本人のお気持ちを伝えて話し合いました。娘さんたちはご本人の気持ちをよく分かってくださいましたが、旦那様の気持ちはなかなか動きませんでした。そのうち、病院の医師からは、「もうこれ以上の抗がん剤治療を外来でするのは難しい。継続するなら入院治療ということになる。どうするかはご家族で話し合ってください」との連絡が入りました。つまり、最期まで治療するのか、治療をやめて自宅で過ごすのかを決めなさいということです。ご本人は「入院はいや! 家で暮らしたい」と言いましたが、旦那様は「まだ可能性があるということだ」と受け止め、やはり見解は平行線です。
私はほとほと困り果てて、外来の師長に電話で相談しました。「私個人としては、もう治療はやめた方がいいと思うのですが」と話したところ、「私もそう思います。師長がやめた方がいいと言っていたとお父さんに伝えてください」と思いがけないことばでした。早速そのことを旦那様にお伝えしたら、ついに動かしがたい岩が動きました。師長に対する信頼の深さと絆がうかがえるできごとでした。
こうして藤原さんは、もう抗がん剤治療をやめて自宅で緩和ケアに切り替えて過ごすことになり、その後の緩和ケアをお願いする医療機関とそれをフォローする在宅医を探しました。札幌にある緩和ケアをしていただくホスピスには、家族全員で相談に行きました。この期に及んでまだ治療に未練を持っている旦那様の苦しい気持ちに対してホスピス医はこう言いました。
「大切なのは今をどう生活するかです。生き延びる時間の長さにこだわっていると、大切な時間を失うことになりますよ!」
一つだけ継続していた抗がん剤も即中止となり、自宅での緩和ケアに困難を来したときは入院もお願いできるという約束を頂き、みんな安心して帰途につきました。
藤原さんの、その後亡くなられるまでの五か月は、いろいろなことがありました。まず髪の毛がふさふさ! 食欲モリモリ! 大きな声でお話しされてよく笑うようになり、娘さんたちは「昔のお母さんが戻ってきた!」と言いました。認知症の進行に伴い、夜間せん妄やまたまた骨折事件などもありましたが、家族総出で介護に当たり、ついにご自宅で最期を看取りました。
私たちにアドバイスを下さったホスピス医は、余市でも講演会をしてくださったのですが、そのとき、「時間」の持つ二つの価値観についてこう説明されました。
「時間には『クロノス』という過去から未来に一定に流れる時間と、『カイロス』という機会(チャンス)、人間の内的な時間がある。」
思えば、藤原さんが初めて本音を言って、泣いたときも、がん治療病院の師長の一言も、ホスピス医の家族への一言も、みんな神様の与えたカイロスでした。