しあわせな看取り
―果樹園の丘の訪問看護ステーションから 第10回 夫婦
岸本みくに
惠泉マリア訪問看護ステーション所長
札幌キリスト召団 余市教会員
大阪、堺市生まれ。
幼い時に父を交通事故で亡くし、母の、「手に職をつけ早く自立するように」との教育方針で、子どもは3人とも医療系に進んだ。卒後15年間大阪の淀川キリスト教病院に勤め、その後、地域医療や福祉、キリスト教の共同体などに関心を持ち、各地をうろうろ。2008年より現在の惠泉マリア訪問看護ステーションに勤務。現在同ステーション所長。北海道に住んで20年、大阪弁と北海道弁のバイリンガル。
夫婦の絆について考えさせられた二組のご夫婦がいます。
佐藤さん(仮名)は肺癌の末期状態でした。脳梗塞の後遺症もあり車椅子生活で、何から何まで奥様の介助を必要とし、まるで幼児のように甘えておられました。明るいご夫婦でしたが、何かしらお二人の間に冷たい風が吹くような空気を感じていました。
奥様は看取りについては「この人は病院でないと無理。気が小さいから」とおっしゃっていました。けれどもご本人は入院を嫌がり、奥様も衰弱が進むにつれて、「この我がままは病院では手に負えないかもしれない」とおっしゃるようになり、自宅での看取りの可能性について一緒に主治医に相談に行くことにしました。
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待合室で名前が呼ばれるのを待ちながら、奥様がさまざまなことを話してくださいました。夫の暴力や放蕩でどれだけ苦労してきたか……。
家ではとても話せないような内容でしたので、このような機会が与えられたことを神様に感謝しました。そんな苦労をさせられてきたのに、今は子どものように妻に甘えている夫を自宅で看取ろうとする彼女の懐の大きさに感心しました。
でもやはり、そばで見ていると言動の端々に彼女の「どうしようもない夫に対する怒り」を感じます。何とか介護をやり遂げようとしながらも、過去のつらい思い出が彼女の中によみがえってくるようでした。そんな葛藤を持ちながらも、自宅でしっかりと最期を看取ることができました。その看取りと介護は、ほとんど訪問看護の出る幕がないほどのしっかりとしたものでした。
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私たちは、葬儀が終わって落ち着く時期を見計らって弔問をするのですが、その時、最期の様子を詳しく話してくださいました。
「自分と子どもたちを枕元に呼んで、何を言うのかと思ったら、黙って手を合わせたんよ! それから意識がなくなったの」
私は、「頑張ってお世話したことが報われましたね!」と答えました。
すると奥様がおっしゃいました。
「報われた、なんてもんではないわ! 嫌な思い出は全部あれで吹っ飛んだわさ~!」。その顔はまことにすがすがしい表情でした。
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もう一人は八十四歳の胃がんの田中さん(仮名)。退院してわずか半月で自宅で亡くなられました。やはり八十になる小さな奥様がでっかい体の田中さんのお世話をされました。奥様は自身も高齢であるため、とても介護は無理と考えておられましたが、退院して玄関を入ったときに「俺はもう病院には戻らない。母さんのそばで死ぬ」とおっしゃったそうで、その一言に心動かされて自宅での看取りを決意されました。
近くに住む息子さんが毎朝出勤前に来て、おむつを取り替えるのを手伝ってくれましたし、訪問看護も頻繁に入りましたが、膝や腰に痛みを持つ身での介護は相当大変であったと思います。意識障害が出て興奮状態になったときは、何日か眠れない日もありました。それでも奥様は頑張り通しました。
ある日の訪問でこんなことを話してくださいました。
「うちの父さんね、眠ってて意識があるのかどうかよく分からない状態なんだけど、私が一人で必死でおむつを取り替えていると、にゅーっと手を伸ばして、私の背中をさすったり、頭をなでなでしたりするの!」
「お父さんの精いっぱいの感謝なんだね」
この話には息子さんも私たちも感動して涙がこぼれました。精いっぱいの母さんに、精いっぱいの感謝の思いで応える父さん。多くは語らないお二人ですが、そこに長年連れ添い、苦労を共にしてきた夫婦の絆がありました。
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仲良く手を取り合って苦労を越えてきた夫婦、かみ合わず、背を向け合いながらそれでも縁を結び通した夫婦、さまざまな人間模様がそこにはあります。
何にしても、相手に「感謝」を表すのはこんなに大切なことなのだと教えられました。皆さん! 感謝を伝えるのはお早めに!