ともに歩んで四十八年
~今、止揚学園を語る 止揚学園の思い出
向谷地 生良
北海道医療大学教授
私が初めて止揚学園に教会のワークキャンプでお邪魔したのは高校二年生の夏休みの時ですから、早いもので三十八年前になります。
止揚学園を知ったきっかけは、教会の高校生会で福井先生が書かれた『僕アホやない人間だ』(柏樹社、一九六九年)の講読会をしたことでした。
振り返ると私が小学校の途中まで、クラスには普通にさまざまな障害を持った子どもたちがいて、一緒に学校に通った経験を持っています。しかし、ある年を境に、子どもたちは私たちの前からいなくなり、自分たちはそのことに何の疑問も持つことがなく過ごしていました。そのことの意味を知らせてくれたのが、福井先生の本でした。それまで、重い障害をもった子どもたちの現実にまったく触れることがなかった私たちは、大きな衝撃と感動を持って本を読み進めました。本を読み終えたとき、私たちの中に自然と「止揚学園に行きたい!」という声が湧きあがり、七人(男四人、女三人)の生徒と引率の教会員をともなって、青森から列車を乗り継ぎ、滋賀県の能登川に向かいました。
今も忘れられないのが、青森とは比べ物にはならない蒸し暑さとスコールのような激しい雨。近くの藪から見つけたシマ蛇のしっぽを掴み、ブーメランのように振り回し、一緒に行った女子高生を追いかけ回す福井先生のやんちゃな長男の義人(よし と)君。そして、子どもたちの人間性を守るための真剣な議論と、当たり前の暮らしを実現するためにお茶碗ひとつをとっても瀬戸物を使い、囲いのないトイレが多い中で、普通のトイレが用意されている光景です。
食事から排泄まで、私たちが何げなく行っている生活のひとコマひとコマを子どもたちの立場になって重んじる辛抱強さと、その根底に流れる人間に対する信頼は、高度成長期を過ごす私たちには大きな衝撃でした。あっという間の一週間でしたが、帰った後、私たちは、献金などで応援していただいた教会員の方々に、報告を兼ねてガリ版印刷で文集を作ることで感謝の意を表しました。私は、今でもその文集を大切に持っています。その表題は「美しい瞳」でした。
タイトルの意味は、自分たちの瞳は死んでいるように思え、それに比べて、止揚学園の子どもたちの瞳は本当に美しいと感じたからでした。修学旅行に参加することをやめて行った止揚学園での経験は、その後の進路選択で私が社会福祉を学ぶきっかけとなりました。
北海道の大学で社会福祉を学ぶことになった私でしたが、今でも思い出すのが「社会福祉概論」という一年目の講義の最初のレポート課題です。
「あなたの考える社会問題とは何か」という課題でした。私は迷わず止揚学園での経験を書きました。福祉に対する情熱は、誰にも負けないという強烈な自負心がありました。同級生は先輩のレポートの丸写しをしたり、先生の専門分野である高齢者問題を書くと良い点数がもらえるよ、という周囲からの情報にまったく耳を貸さず、熱い思いを込めて書いた最初のレポートでした。しかし、レポートが返却されると評価は最低で、赤字で「これは論文じゃない。作文です!」というコメントが書かれていました。他の丸写しの学生の点数よりも悪かったのです。私は、まるで門前払いをされたようにショックを受けました。「学問としての福祉」という冷たい扉を開けることになった私の大学生生活は、そのような最悪の気分でスタートしたのですが、今となっては懐かしい思い出です。
そして、大学を卒業して就職したのが北海道日高の浦河町にある病院です。そこに浦河教会がありました。
偶然ですが、教会のある苫小牧地区では、毎年のように止揚学園にトウキビと秋サケを送り続けています。そして、送られてくる丁寧な手作りの礼状には、馬嶋克美さんなど止揚学園の懐かしい人たちの顔写真がいつも載っていました。
私は、ソーシャルワーカーとして病院で働き、主に精神障害を持つ人たちの相談支援に関わるようになりましたが、私の中では、止揚学園の経験が今も実践の中に息づいています。四十年近くが経ち、建物も、周りの風景も大きく変わっているかもしれませんが、これを機会に、もう一度、止揚学園を訪ねてみたいと思っています。