どうして「神学」は必要なのか?

内田 和彦
聖書宣教会・聖書神学舎教師会議長

三、知識と信仰の二元論ではない

私たちの信仰神学に対する否定的な見方の中には、キリスト教信仰に対する誤解から来ているものもあるように思われます。その誤解とは、知識と信仰を、あるいは学問と霊性を二元論的にとらえる見方です。

 旧約聖書の箴言1章7節に「主を恐れることは知識の初めである」とあるように、神に対する敬虔と知識は、本来対立するものではなく、むしろ神への恐れから信仰者が持つべき真の知識が得られるのです。また、ピリピ1章9、10節には「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」というパウロの祈りがあります。愛は本来、知識や識別力によって豊かにされていくのです。

 ところが、近代思想においては、理性や知性の営みと信仰や霊性というものが二元論的にとらえられるようになってしまいました。理性では神を知ることができないとされ、信仰は理性から切り離された宗教体験、宗教感情の問題とされてしまったのです。

 その結果、知的な営みは反信仰的とみなされたり、あるいは理性ではキリスト教信仰に反することを考えても、心情においては「敬虔」であるといった事態が生じて来ました。

 しかし、聖書は、私たちの理性や知性、宗教的な感情のいずれもが、神の賜物であると教えています。同時に、罪によって腐敗しているとも教えています。そこで、信じる者に内住してくださる聖霊に助けられつつ、聖書に明らかにされた神のみこころに聞き従うことによって、私たちの「知的な」営みも信仰体験も、いずれも聖化されていくことが必要です。

 もし、知性を軽視すれば、私たちの信仰は、曖昧ではっきりしないものとなり、場合によっては他の宗教における体験と区別できなくなったり、混合したりしてしまうかもしれません。また信仰の生きた体験を無視すれば、冷たく形式的なものとなり、不毛なものとなりかねません。

 そのようなわけで、私たちはどうしても神のみこころを体系的に学ぶ必要があります。それは決して神学のための神学、学びのための学びではなく、学ぶことによって神への恐れと愛が増し加わる学びです。そのためには、神学に専門的に取り組む者たちも、聖書の教えを私たちの日々の生活との関連で、しかも「普通の言葉」で説き明かす努力をしなければなりません。

 主が憐れみをもって、私たちの神学をいのち溢れるものとしてくださいますように。すべてのクリスチャンが「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができ」ますように(エペソ4章15節)。
内田和彦  聖書宣教会・聖書神学舎教師会議長


聖書宣教会 拡大教育認定
 信徒のための聖書教理講座
第V期 第5回 軽井沢バイブルスクール 「教会論」

講演

内田和彦 聖書宣教会教師会議長

日時

11月23日(日)~25日(火) 2泊3日

場所

恵みシャレー軽井沢 

定員

30名

参加費

32,000円 (うち申込金5,000円)

*バイブルスクールリピーター割引あり

 2泊6食付

聖書教理の学びの第6回として「教会」について学びます。私たちが属しているイエス様の「教会」、そこは神様を礼拝するきよさ、麗しい主にある交わりがあるだけではなく、人間が織りなすゆえの罪、そして時に争いさえもある現実があります。このセミナーではもう一度みことばから「教会」の姿をじっくりと学んでまいります。
*この講座は、聖書宣教会・聖書神学舎の拡大教育の単位として認定されます。
お申し込み、詳細については下記まで。
恵みシャレー軽井沢 東京事務所
〒160-0016 東京都新宿区信濃町6
Tel. 03-3353-7448 Fax. 03-3353-2419
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