ふり返る祈り 第1回 私は頑固なんかじゃない

斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授(牧会カウンセリング他)、同学院教会牧師。

神様、私たちが本当に頑固になっているときは、自分が頑固になっていると気づかないものです。人の頑固さや強情さに文句を言いますが、意外なところで自分が頑固になっているのです。頑固さの究極的な目的は、自分のプライドを守ることです。他のことはどうでもよくなっているのです。主よ、これはあなたがいちばんお嫌いになることです。どうぞ今日、私の心を柔らかにしてください。そして、何がいちばん大切なのかを見極める目をお与えください。自分を変える勇気を与えてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

自分が頑固だと思っている人は、どれくらいいるだろうか。頑固な人から迷惑を被っていると感じている人は、けっこういるかもしれない。あなたの家族か、あなたの上司か、教会の牧師か、はたまたあの信徒か、この役員か。頑固な人は少なくない。
ところが、私自身は、自分が頑固だなどと思ったことはなかった。いつも自分は頑固な人から迷惑を受ける側であると思っていた。むしろ自分は「優柔不断」と批判されるくらいに柔らかな人間だと思っていた。
実は、そういう自分の優柔不断さが嫌だった。だから、パキッと自分の信念を持ち、ぶれずに頑固なまでにその意見を貫き通す人はすごい、と思っていた。私は自分に、あえて頑固になれ! と言いたいし、人から頑固ジジイと言われる年寄りになりたいとさえ思う。頑固な人は困ったものだと思う半面、敵ながらあっぱれと思うこともあった。

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しかし、本当に困る頑固さもある。聖書ではそのような頑固さを「頑なな心」と呼ぶ。頑なな心の特徴は、人に耳を傾けないことだ。人の話を聞こうとしない頑固さ、聞いても理解しようとしない頑固さ、それが神のお嫌いになる頑なさである。けれども、心を頑なにしているのは実際しんどいことだ。けんかして意地を張って、お互いに口をきかないというのはまことに疲れる。三日も四日も意地を張り通すのは本当はやめたい。
なぜ、何のために、人は頑なになるのか。あなた、何で頑固やめないの?と聞かれたら、「これは正しいことです!」と、自分の正しさにしがみつき、あくまで相手の悪さを言い募ることに執念深く固執している。自分は別に、頑固であろうとしているのではない。周りがそうさせている。だから、それを譲ったら自分が崩れてしまうと思われる。すべてがダメになってしまうように感じるのだ。でも、実際には崩れてしまわない。あたかも、そうなってしまうかのように恐怖を覚えるにすぎない。だから必死にそれを守ろうとして頑固になり、人に自分の主張を強要する結果になってしまう。そして、周りがそれを許してしまう環境ならば、自分が頑固であるのをずっと気づかずに過ごしてしまう。

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人間は、身内の間で特に頑固になるのかもしれない。世間様には、比較的物分かりのよい顔をする。いや、進んで頑固にならないようにするだろう。ところが身内には違う。私はずっと大人になって、そのような頑固性はすべて自分自身に当てはまるのだということがわかってきた。
その転機となったのが結婚だ。夫婦というものになって、自分が自分で思う以上に頑固であることが分かってきた。自分のやり方、生き方を、知らず知らずのうちに妻に押しつけていたのだ。
夫婦の問題で、ある人に相談したところ、「あなたは頑固ですね。なぜそこまでして自分のしたいことにこだわるのですか」と言われてしまった。自分が頑固だなどとは思ったこともないし、人からそう言われたこともなかった。ショックだったが、振り返ってみると、これこそ頑固の心理というものが自分にあることを悟った。自分もけっこう、人に迷惑をかけていたのだ。

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いったい、心の頑なさを柔らかにする秘訣があるのだろうか。それは安心することだと思う。自分はこれを譲っても大丈夫。譲っても自分は崩れない。安心するには自分より大きな方に身をゆだねることだ。自分を守るために頑なにしている必要などない。この大きな存在に自分を任せることができたら、柔らかで強い自分に変えられる。ちょっとやそっと妥協しても、自分は崩れない。内なる声は、「頑なにしてはいけない」と語りかけている。