ふり返る祈り 第4回 度重なる試練

斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授(牧会カウンセリング他)、同学院教会牧師。

神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。
詩篇57篇1節

神様、人生には、必ずしも一度に一つの出来事が起こるのではありません。一度にさまざまなことが起こってくるのです。そして一つ一つのことは小さくありません。心悩ませ、涙にくれながら、祈らせられる事ごとです。主よ、私の心の器はそんなに大きくありません。起こってくる試練をとても収めきれないのです。けれども、私自身はあなたの大きな器の中にあります。今日も肩の力を抜き、あなたの愛のわざの中に身をゆだねて、あなたの御心を行うことができるようにお守りください。

私たちを圧迫するさまざまな出来事のほとんどは、予期していなかったことです。若い頃、私はある朝、その日起こりうることを予想してみました。そして一日の終わりに、その日起こった出来事を振り返ってみると、そのほとんどが予想しないで起こった事ごとでした。多くは些細なことでしたが、中には大きな決断を必要とすることもありました。試練も予期しない形で襲ってきます。何か目標を持って計画を立てます。すべてが計画どおりにいくでしょうか。必ずと言っていいほど何かハプニングが起こります。予定していた人がいなくなったり、機械が故障したり、事故が起こったり、当初の目標を変えざるをえなかったりします。そのようなことは一度に一つずつ起こるのではなくて、一度に幾つも起こったりします。
もともと一つだけでも応対するのに大変なのに、一度に幾つも起こると対応しきれなくなります。対応しきれなくなると、頭が混乱しフリーズするのです。コンピューターも、一度にあまりにたくさんの仕事をやらせるとフリーズして動かなくなることがあります。

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人間が動かなくなることはあまりありませんが、対処しがたい試練が襲うとき、三つの混乱が私たちの内に起こるといわれます。まず感情の混乱が起こります。怒り、恐れ、悲しみなどの感情が、普段の自分では抑えられるものも抑えられなくなります。泣いたり、極端に落ち込んだり、時には怒鳴ったりするかもしれません。心がキューッと縮こまり、世界中がダメになってしまうような気持ちになります。
感情の混乱と同時に思考の混乱も起こります。自分は平静に客観的に考えているようでも、その考え方はある部分が極端に強調されたり、無視されたり、とても偏った考え方をします。思考の範囲が狭まっているのです。感情の混乱で怒りが誰かに向けられたりすると、「この子の将来はもうおしまいだ」「アイツとはもう絶交だ」、あるいは「自分はもう人生の負け犬だ」そして「自分の人生を終えるしかない」とまで言ってしまうのです。
すべてが黒か白かでしか考えられなくなります。思考の混乱の中では、まともな建設的な考えは出てきません。そして思考の混乱に伴うのは行動の混乱です。おかしな行動を取ってしまいます。ある人は背広の上下が別々なものを着てしまいました。ある人は靴下が別々。親しんでいる道なのに、何度も迷います。トンチンカンな言葉や態度を発します。とんでもない手紙やメールを送ったりします。自分の器では収めきれないのです。

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私はアメリカのテレビシリーズの「ホワイトハウス」というドラマが好きで、時々DVDを観ています。アメリカ大統領とそのスタッフたちが主人公で、彼らがさまざまな問題に取り組んでいく姿をドラマにしているのです。外交問題、内政問題、教育問題、次の選挙の問題、自分が所属している党の問題などさまざまな深刻なハプニングが同時進行で起こります。彼らは悩みながらも、ある時は問題解決まで到達し、ある時は未解決ながらも前に進んでいこうとします。大統領がやっていけるのは彼を取り囲むようにしてサポートするスタッフたちがいるからです。
襲ってくる試練を最悪なものにしてしまうのは「孤立」です。混乱するときは、私たちのほうで周りを拒否し、自分で自分を孤立に追い込むようなことをしてしまったりします。こころ素直に自分は助けが必要なことを認めることが大切です。自分の器は小さいかもしれないけれど、神様の大きな器の中に自分は包まれているのだという信仰を持ちましょう。私には収めきれなくても、神様の器は十分に大きいのです。