ふり返る祈り 第5回 愛がない?
斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授(牧会カウンセリング他)、同学院教会牧師。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。
マタイの福音書7章12節
神様、私たちは愛のない人、配慮のない人を批判します。こちらが傷つけられたことを怒ります。けれども自分自身の配慮のないことには気がつかないでいます。そして意識はあっても実際の行動には移せないこともしばしばあるのです。主よ、同情心だけで終わるのではなく、それを行動に移させる決断力と勇気とをお与えください。神様がこの世界を愛されたときに、遠くから眺めていたのではなく、そのひとり子をお送りなさったように、 私たちも家族に、友人に、教会に、世界に、手を差し伸べる信仰をお与えください。
配慮が足りない! 愛がない! これは痛烈な批判になりえます。ところが他人を批判するその言葉は、そのまま自分に返ってくる諸刃の剣です。
配慮が足りないのだと、私たちはさまざまなところにこの批判をぶつけます。国や町に対しては、「人のニーズが分かっていない、現場が分かっていない!」上から目線の行政だと批判します。さらに学校や、職場、そして教会にも「愛が足りない!」とその矛先を向けます。無論、世の中には従業員や学生、現場で働く人たちへの配慮に欠けているところが少なくありません。声を出して改善していかねばならないでしょう。
さらに、私たちはもっと身近な存在である友人や家族にもこの批判をぶつけます。誕生日を忘れられた。置いてきぼりにされた。約束をすっぽかされた。優しい言葉をかけてくれない。配慮のある行動を取ってくれない。期待していないつもりでも、がっかり、傷つくこともあるでしょう。傷つくから怒るのです。
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私たちは何に傷ついているのでしょうか。おそらく、自分は愛されていないという失望感に心が占められるのです。相手はあなたの傷に全く気づいていないかもしれません。あなたの気持ちを深く読むことができないで、つい言葉が出てしまったか、あるいは出なかったのかもしれません。あるいは精いっぱいの言葉をかけたつもりでもどこかずれてしまったのかもしれません。それが自分は愛されていないという闇の中に私たちを放り込むのです。そこから言い知れぬ悲しみ、寂しさ、怒りがうずいてきます。時にそれが他者への攻撃となりますから、人はますますあなたから遠のき、「愛されない感」は倍増されます。人は完全ではないと分かっていても、それが垣間見えたとき、がっかりするのです。見過ごされても、忘れられても、寛容な気持ちで、「お互い様」と言えればよいのですが、その時は泥沼です。
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あなたは過去のどこかで、とてつもなく寂しい思いをしていたのかもしれません。それがちょっとしたことで、そのときのつらい思いが噴出するのかもしれません。だから常に温かい言葉、スキがない配慮を求めているのでしょう。少しでもそれが欠けたらあなたは怒ります。もし私たちが誰かに対して「愛がない」「配慮がない」という言葉を頻繁に口にするようになったら、自分自身が気をつけねばならないと思うべきです。果たして、相手に要求しているような配慮を自分自身がもっているかと。
まさか自分だけは受けることが専門だと、大真面目で考えている人はいないでしょう。しかし、具体的には何をもって愛といえるのでしょうか。私たちの愛は不完全もいいところです。すべての人をまんべんなく愛することは不可能ですし、一人の人を愛するにしても偏りが出るかもしれません。何をしても、どこかに欠けているものが出てくるものです。
しかし、自分にしてほしいことを人にしてあげなさいという主イエスの言葉に従うことはできます。世界の救いのために自分がすべきこと、などと複雑なことを考える前に、目の前にいる人のために自分ができることです。
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時に私たちは、相手からの見返りを求めて必死でイエスの言葉に従おうとするかもしれません。あるいはそこに自分の存在価値を見いだそうと努力するかもしれません。間違ってはいけません。あなたの存在価値は成功、報酬ではありません。あなたのすることがうまくいってもいかなくても、相手からの見返りがあったとしてもなかったとしても、主イエスはあなたのしたことを認め、喜んでくださるのです。