みことばに「聴く」―牧師室の霊想から
礼拝のために大切な説教を備えてくださる牧師の日々のディボーション、聖書の読み方をのぞき見! 少しずつ増えていった私の聖書読み
私は高校生になってから教会に通うようになりました。私を導いてくださったのは、日本語の上手な宣教師でした。主に紙芝居や外国製の聖画を使って「放蕩息子」の物語や「良い地に落ちた良い種」などの話をしてくださいました。私はそれを程度の低い教え方だとは思いませんでした。初心者の私には、むしろ適当な導入でした。やがて私は「新約聖書」の安いものを買いました。小遣いが少なくて旧約聖書を買う余裕がなかったからです。そして、やがて旧約聖書だけを買いました。高校を卒業すると同時に、私は神学校(東京神学大学)に入学しました。
一般の大学を卒業してから神学校に入学すればよかったのに、私の時代、神学生はほとんど高卒生でした。難しい宗教哲学や心理学などの学科は、ただ無理やり覚え込んでいました。英語も不十分なのにドイツ語、ヘブル語、ギリシャ語の学科もありました。「私は語学を学ぶために神学校に入ったのかしら」と思うほどでした。何が何だか分からないうちに六年間の神学校生活が終わり卒業しました。今考えれば、神学校ではキリスト教全般の「基礎の基礎」を学んだだけでした。
私が聖書を本格的に読むようになったのは、牧師になってからでした。私は仏教と関係の深い環境に育ちましたから、多くの仏僧が朝五時から必ず本堂で朝の御勤め(読経)をしているのを見てきました。そのため、牧師である私も一日の仕事の始めに聖書を読み祈るものだと、深く考えることもなく当然のことのように思いました。毎日二章ほど聖書を読んで祈り、その後忙しい日ごとの生活に追われるようになりました。その頃は「デボーション」(祈祷、礼拝)などという言葉すら知りませんでした。毎日、次週の説教準備が頭から離れず、関連聖書箇所の研究に明け暮れました。まだ二十四歳でした。
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説教準備のおかげで聖書全体への理解が少しずつ進みました。それと同時に私の聖書読みの時間は長くなりました。神学校新卒の頃に比べれば、一つの聖句とその関連の聖句への洞察は深くなっていったと思います。私は旧約聖書の「律法」(モーセ五書)と新約聖書の「福音書」を独立させて多く読むようになりました。バランスを取るために他の聖書部分(旧約聖書の歴史書、文学書、預言書や新約聖書の使徒書)も毎日読む分量が増えていきました。
やがて毎日、旧約聖書は「律法書」を五章、「歴史書」五章、「文学書・預言書」五章、新約聖書は「福音書」二章、「使徒書」二章、全部で十九章も読むようになりました。いつの間にか毎日一時間半も二時間も聖書だけを読むようになりました。
それだけではなく、深く考えさせられる聖句で時間がかかるようになり、突然聖霊の導きを感じて新しい発見や啓示を受けるようになりました。自分に足りなかった「聖霊の賜物」を求める祈りが増えました。つらいことや苦しい生活の中で「恵まれた経験」を与えられました。ますます聖句の一つ一つを神の発される声のように感じて読むことができるようになり、心の中でその声に応答しながら読めるようになりました。年齢は、正確には覚えていませんが、すでに四十代の後半になっていました。
今、人生を振り返るような年齢になり、つくづく私は他の牧師たちと比べれば成長の遅い人間だったと思います。毎週説教を作らなければならないという生活が、私の聖書読みを導いてくれていたように思います。恵み豊かな神は、私に必要な恵みを豊かに与えてくださっていたのです。
『1年で聖書を読破する。―永遠のベストセラー《完読法》』鈴木崇巨[著]
A5判 224頁
定価1,600円+税