みことばに「聴く」―牧師室の霊想から
礼拝のために大切な説教を備えてくださる牧師の日々のディボーション、聖書の読み方をのぞき見! 胸に留め、思い巡らしつつ


遠藤勝信
日本同盟基督教団 小平聖書キリスト教会 牧師

「私はあまりに忙しいので、どうしても三時間は祈らなければならない」と語ったというルターの言葉は、いつしか座右の銘となりました。しかし、多くの仕事を抱えている日の朝などは、かなりチャレンジングです。机に着いた瞬間、それこそ無意識に仕事を開始している自分に気づき……、我に返り、聖書を開くということも。そういうことがないようにと、最近では早起きして、一時間ほど早く書斎に入るよう心掛けています。
さて、デボーションのときの聖書の読みも大切ですが、私にとっては、説教準備も、自らの霊性を養うとても大切なデボーションの機会となっています。ある方は、デボーションは「自分自身の霊性のため」、説教は「聴衆の養いのため」と分けるかもしれません。しかし、私にとって、説教とは単に「語る」ためのものではなく、「聴く」信仰の営みとなっています。
まず書斎にて神の御声を自らに語りかけられているものとして聴きます。聖書釈義は納得のいくまで行います。釈義を終えてもすぐにことばにはせず、学び教えられたことを胸に留め、みことばを思い巡らしつつ一晩を過ごし、翌朝、示された「語るべきこと」を携えて書斎に戻ります。説教は声に出し「聴きながら」準備します。そのことで牧師は説教の第一聴衆者となり、聖霊とみことばによって取り扱われるのです。自らの罪、愚かさ、足りなさを示され、悔い改めへと導かれます。あるいはまた、神の恵みの偉大さ、豊かさ、奥深さに圧倒され、感涙にむせび泣くことも。そこで与えられた主の御恵みを礼拝において愛する信徒たちとともに分かち合うのです。自分が深く教えられ、感動していないことをいくら語っても、聴衆の心には届きませんから。
夕礼拝では朝の礼拝で語られた説教の録音を、講壇から降り、聴衆の一人となって再び聴きます。そのようにして、同じ説教を三度聴き、みことばによって教えられ、励まされ、養われてきました。大切なことは、形や方法以上に、「いかにみことばに心を注いで(「devote」)いくか」なのではないでしょうか。