みことばを白衣の下にまといつつ 新連載 第1回 人を生かす「Why?」
斎藤真理
内科医
「教育の目的は、学習者の中に価値ある変化をもたらすこと」
医師とはいえ、大学附属の病院に勤めている教員でもある私は、明けても暮れても、教育者であることを意識させられている。医師不足が叫ばれている昨今、恵まれている環境と言わざるを得ないが、毎年毎年新人の大群が押し寄せ、また今年も「いろはのい」からの指導が始まった。病院の仕事は、現場に出てやってみて覚えていくことが肝心であるから、ひやひやしながら彼らを見守り、声をかけ、見本を示し、手助けし、振り返りをしていく日々である。
本当は、自分でやってしまった方がはるかに速い。患者さんにとっても……。でも、新人に任せる。あとは、待つ。待つ。待つ。しかし、待てない自分に気づく。「そうじゃなくて、こうした方がいい」と、ダメ出しと指示出し。自分が手取り足取り教えられることが苦手だったから、彼らにもまずやらせてみて自ら気付いて身につけて行けよ、という?千尋の谷の獅子?派だったが、親獅子としてもビクビクと谷へ落としている。
教育の専門家が医学教員向けセミナーでこう語っていた。
「ほめて育てるなんて、お客さん扱いして医師は育つのかと思うでしょうが、肝心なことは、まず一生懸命に取り組んだことを承認する、ということだとお考えください」。うーん。それならできる。
新人医師に「一人でここまで頑張ったんだね」
「でも、(ここから声が大きくなってしまうが)これはこう考えた方が患者さんが楽になる早道だと私は思うけど、どう?」
そして「じゃー、もう一回がんばってこようか」と背中をぐいっと押す。
Dying is the final stage of growth
私が医学部で担当している臨床死生学の講義で、よく引用するフレーズが、見出しに掲げた「死にゆくこと(過程)は、(人間の)成長の最終段階である」というキュブラー・ロスのことばだ。「人間死にいたるまで成長できる」と常々述べている私は、最近、英語スピーキングのレッスンを受け始めた。米国出身の先生の話や意図を全身で吸収しようとしている自分に驚嘆しつつ、新しい発見がたくさんある。レッスンの目標は、英語を正しく話すことではなく、英語で流暢に自己表現できるようになること。講師のそんな「エンカレッジ」がすごく伝わってくる。私はその思いに共感しながら、しどろもどろ口を動かしている。
レッスンで、英語圏では親が子供をしかるときは「Why did you do that?」(なぜ、そうしたの?)と言うと教えられた。でも、日本の先生やママたちなら、「忘れ物をしちゃダメでしょ!」「散らかしたままでテレビを見ていてはいけません!」など「Don’t Don’t Don’t」と、怒った顔が思い浮かぶ。私も、新人医師たちに「そんな聴き方しちゃダメだよ。患者さんが本当のこと言わなくなるよ!」とか、「あんな刺し方したらダメ。血管に当たりっこないです」となりがちだ。
それでも現場では心して教育的に、誕生間もないドクター達に向かって言葉をかけている(つもりである)。
「どうして患者さんは今日病院に来た本当の理由を先生に話してくれなかったんだろうね?」
「どうして上手く血管に入らないのかな?」
忘れられない、母のしかり方
母は、しかっても恐くなかった。悲しそうだった。小学生のころ、口からでまかせの虚言を吐く私に、「教会に行っていない○○ちゃんの方が、嘘はつかないわね」と寂しそうに言った。内心、すごくこたえた。「~しちゃだめよ」というしかり方を決してしない親だった。しかし、たった一回だけ言われた「ダメよ」は私をどん底から救い出した。
もう三十年くらい前のことになる。自分では受かっただろうと思っていた大学受験に不合格で帰宅したとき、「(受験を)やめるって言っちゃダメよ」とだけ言った。確かに私の頭の中は真っ白だったが、決して「やめたい」とは思っていなかった。むしろ、次のチャンスまで一年あるというのが長すぎる。明日にでももう一回受けたいという気持ちだった。母のひとことは本人の気持ちとはずれていたが、人生で一番の挫折の時に、一番ふさわしい承認の言葉だった。口数の少ない母なりの励まし効果は絶大で、私は我に返った。
問題が起きたら、直後に振りかえること、そしてタイムリーに指導することが大事である。決して明日ではなく。
聖書のなかでイエス様の使った「Why?」はたくさんあるが、どれも現在形ばかりである。
「なぜ、眠っているのか」
「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか」
「なぜ、泣いているのですか」
私たちに価値ある変化をもたらす「Why?」である。