みことばを白衣の下にまといつつ 第3回 お見舞いというケア


斎藤真理
内科医

お見舞い上手

 お見舞いにいく。たいてい予定外の出来事だ。

 心配だし、胸騒ぎもする。急く気持ちで落ち着かない。何が起こったの? 今日行っていいかしら? ためらう。苦手意識も生じる。

 お見舞い上手になりたい。長居は禁物。人の噂はNG。香水は吐き気のもと。現金は「半返し」など気を遣わせる。長いお祈りは、した人のほうが満足。栄養補助食品を「これ、いいよ」と持参するのはやめたい。

 喜ばれる差し入れ。タオルは何枚あっても嬉しい。下着を人に着替えさせてもらう状況では、新品が欲しい。晴れやかなパジャマなら心が晴れる。高級フルーツ店のゼリーは、抗がん剤治療中でもOK。なにより手ぶらでもスマイルが一番の差し入れだ。

 帰り道は気分が違う。情報を集めずに来た後悔。想定外の重症でショックに沈む。安心や感動もある。年下、子供だとせつない。ほっとけない気持ちがわいたり、泣けてしまうこともある。かえって勇気づけられて、私も頑張るぞと思ったりする。会えて良かったと、皆が感じるだろう。

咄嗟の言動

「大丈夫?」と大丈夫「じゃない」人に聞かないように自分に命じている。ふりかえると、「大丈夫?」と聞くと、反射的に「大丈夫です」と返す。「大丈夫じゃないです」と正直に答える人はいない。大丈夫と言ったからと、手をかさない駆けつけないというのは早計だ。

  「よきサマリヤ人」の祭司、レビ人もきっと、遠くから見て「(自分が何もしなくても)大丈夫だ」とつぶやいて離れて行ったに違いない。サマリヤ人は、有無を言わせず、その人を担いだのだと思う。

お見舞いのときの顔、声

 柏木哲夫先生は『患者には その日その日の距離がある』と詠んだ。患者さんは人との距離に敏感だ。病室のどこに座るのがいいか。顔の近さ、声の大きさを意識したい。

 私は、曽野綾子氏が言う「死に向かう性格」をいただいているようだ。臨死期にある人のもとにも、躊躇なく五感を働かせて近づけている。

  「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる」(伝道者の書七章) 死が迫っている床は、悲しみに覆われる。ただし涙を見せるのは家族や私だけで、本人は泣かない。

 部屋を出るとき「また来ます」と声をかける。でも明日は会えないかもしれない。それでもいい、と思う。ドアを閉め、目を閉じる。「神様、とりあつかってください」

一の肥やしは主人の足跡

 一人、そしてまた一人。マザーテレサは言った。

 菊を作る人たちは「一の肥やしは主人の足あと」という。見回ることの大事さを表現している。

 私は病棟を文字通りくるくると回診する。ベッドサイドに足跡をたくさんつけている。

 意識のなくなった妻に捧げる曲が個室に響く。レクイエムは尚早と思うが、若くして別れる夫の想いだ。

 アロマセラピー。サンダルウッドの香り。リラックス効果か鎮咳作用。私も気分がよい。

 立っていたらじっくり話を聴けないからベッドサイドに座ると緩和ケアの先輩たちは言う。

 私は目が合う姿勢が好ましいと思っている。乗り出して覗き込んだり、体をあちこち触ったりする。寝ているときは起こさない。しばらく見つめる。静かな呼吸に、私も同期させる。部屋の匂いを吸い込み、窓辺の生け花に気づく。

 アジサイは長持ちするなあ。赤いばら一輪を買ってくるご主人とはどんな人だろう?と思い巡らす。

 机に星野富弘さんの本を見つける。「『ことばの雫』、読みましたか」「いいえ」。医局へとりに行く。「いくつか線を引いてありますが、お読みください。お二人のようなご夫妻ですね」とプレゼント。動けない夫はニコニコしながら聞いている。

  『〈弱さ〉のちから』で鷲田清一氏は「ケアを〈支える〉という視点からだけではなく、〈力をもらう〉という視点からも考える必要がある」と述べている。

 へばり気味の夜、患者さんたちに会いにいく。パジャマと白衣の立場が逆転する。「早く休んでください」と肺炎の熱でふるえている人に言われる。

 人間の真理、創られた強さを知る。共有した時間が私のふんばりを生む。

 よきサマリヤ人のように、連れて行って、帰りにも会いにいこう。

 「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ一〇章)