みことばを白衣の下にまといつつ 第5回 ゴールをめざして
斎藤真理
内科医
ひざまずく
ある時、気づいた。研修医たちの膝が黒く汚れている。そうか、「視線の高さを合わせよう」接遇研修の効果だ。アメフト部だった彼は、一八〇センチ以上もある背を丸めずに、すっと腰を落とすことができる。さすが鉄壁のディフェンスラインだ。剣道部の彼は、両膝をきれいにつく。
自分はどうしてる? 見習わなきゃ。もっと洗練された聴き上手へ……。
いやっ! たしかに患者さんの高さだが、目ではなく血管の高さに合わせているのだ。一度で針が入らず二度三度と試す。顔を近づけて探す。悪戦苦闘の跡だった。
器用さは、医学部のテストにはない。正確、安全にということは、座学、シミュレーターで学ぶのだが。この手際の良さ、二十歳以降の習得は容易でない。
私はピアノを習ったが向いていなかった。妹は簡単にマスターしていた。でも、鍵盤への指のタッチが音に反映されると知った。それは今になって、タイピングだけではなく、患者さんを触診する際にも活かされている。
プロとして初対面の方の体に触れる。そのこつを教えるのは難しい。センスが必要だ。人がやっているのを見て学び続けないといけない。
コーヒーをくださるのは嬉しいが、ガチャンと置かれると悲しくなる。夏休みのお土産を会議室で遠くから投げられるとガッカリする。やはり躾けか。環境の影響も大だろう。数年前、テニス部出身で何を注意しても頼んでも「ありがとうございます」と言う研修医がいた。二週間もすると、職場が「ありがとうございます」であふれていた。あの人まで、とほくそ笑む大ニュースだった。
どこへ向かって走るのか
私は根っからの体育会系で、「One for all, All for one」のチーム精神が染みついている。パスをする絶妙のタイミング。攻めるときの真っ向勝負、弱点をつく周到さ。繰り返し質の高いトレーニングを積む努力。からだを使いこなすパフォーマンスは美しい。メンタルが大きく作用する。勝つための集中力。必ず起こる失敗への処し方。
甥っ子が、クリスチャンは武術をしてはいけないのか、という疑問を持っていた。相手と組んで、投げる打つ蹴る締める、伝統の技が凝縮されたスポーツだ。「奉納」、神に捧げるという意味で行われる場合があるので、鍛錬する手段としてためらう思いが湧いたのだろう。
二十年以上前、『炎のランナー』という映画を見たとき、衝撃を受けた。神様のために走るのか。勝たなければならないのか。勝たせてくださいと祈ってよいのか? 「負けるために走るんじゃない。勝てないなら、何を目標にしたらいい?」この台詞に私も同じ思いになった。
『我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか』というタイトルのゴーギャンの大作が来日した。医学部の死生学講義でこのタイトルをいつもモチーフにしている。
この問いには人それぞれ違う反応をする。言語化できるか? 医療者なら答えを持っている必要がある。まず「私は……」に言い換える。そうして目の前の「あなたは……」を共有する。その「あなたは……」に関わっていくのが、私たち医療者の仕事なのだ。その経験の積み重ねから、「我々は……」に認識が広がっていく、と進んで授業をとじた。
香山リカ医師の近著に「生まれた意味は問わない方が身のためだ」とあった。五木寛之氏の『人生の目的』には、「人生に目的はあるのか。私は、ないと思う」とある。
広橋嘉信牧師に一対一で教わったウェストミンスター小教理問答の問一では「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」と言いきっていた。クリアだった。十代の私のモヤモヤはふっとんだ。誰にとっても、何歳でも、どんな仕事についても、死の間際でさえもこれなら実現可能だ。ひとそれぞれの方法で満たされるではないか。
「闘病」という言葉を私は使いたくない。病気は敵だろうか? すべての人は最終的に負けて終わることになってしまう。私たちには走るべき道のりがある。それを意識してゴールまで走りたい。
昨今の私の両親。「お父さんたちは、祈ることが仕事だから」賞味期限のない「生かされている目的」があるわけだ。
やって見せ、やらせてみせ、教えさせ。「See-do-teach-it」方式というのだが、まずやって見せる力が大きい。イエス様のひざまずいている姿が鮮明に見える。
「それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」
(ヨハネ一三章五節)