わかりやすい終末論 前半

山口昇
日本神の教会連盟・玉川神の教会主任牧師、アレセイヤ研究所所長

 

終末論について

皆さんは「終末」とか「終末論」ということばを教会などでよく耳にされると思いますが、それが何を指しているのか、考えてみたいと思います。

「終末」とは何か?

一九五〇年に、クルマンという神学者が『キリストと時』という本を書きました。その中で彼は、ギリシヤ思想における時間観は、輪廻思想のような円環的時間観(JR山手線や大阪の環状線のように、始点も終点もなく、ぐるぐる循環し続けるもの)とキリスト教のような、天地創造から始まって、人間の堕落、楽園の追放、アブラハムの選び、モーセによるイスラエル民族の出エジプト、……と続いて旧約から新約に至り、黙示録における最後の審判と新天新地に至って終わる、初めと終わりがはっきり分かる直線的な時間観がある、と言いました。そこで、キリスト教の言う「終末」とは、聖書によって示されたこの神の救いのご計画の終わりの部分を指しており、「終末論」とは、キリスト教神学におけるこの「終わり」の部分を取り扱うものを指しています。組織神学での終末論には一般に、キリストの再臨、千年王国、死者の復活、最後の審判、新天新地が、含まれています。

 

わかりやすい終末論 後半

 

ちなみに、日本の仏教はインドから伝来したもので、ギリシヤと同様に輪廻思想なので、「輪廻転生」と言われるように、生ある者は解脱をしない限り迷いの世界を無限に繰り返さなければならない、と考えています。したがって、キリスト教のような、終末という思想はありません。なお、仏教では「後世」とか「後生」といって、人間が阿弥陀仏に帰依して、死後に生まれ変わり、西方極楽浄土に行くという考えがありますが、これは紀元一世紀頃、北西インドで生み出された、大乗仏教のいわゆる「浄土教」の教えであり、これはユダヤ教やキリスト教のメシヤ思想の影響を受けていることを否定できない、というのが現在の大方の学説です。

イエス・キリストの終末論

さて、聖書による終末思想は旧約聖書にもありますが(詳しいことは『新キリスト教辞典』の「終末論」の項参照)、ヘブル人への手紙一章二節によれば、「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」とありますように、終末は、イエス・キリストの宣教によって始まったと考えることができます。マルコの福音書一章一五節にはイエス・キリストは公生涯のはじめに、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教されたことが書かれています。この「神の国」とは、神の支配のことであり、現在的な面と未来的な面の両面を持っています(この「神の国」についてはここで詳しく述べていることはできませんので、『新キリスト教辞典』の筆者が書いた「神の国」の項目を参照してください)。

さて、「神の国」の未来的な面は、イエスが主の祈りにおいて弟子たちに「御国が来ますように」(マタイ六・一〇)と教えましたが、ここには神の国は明らかに未来のものであることが示されています。そして、神の国が到来する時には、邪悪な者が神のさばきによって永遠に滅ぼされる時でした(マタイ二五・四一)。その時、邪悪な者が滅ぼされると同時に、正しい者たちは集められ、天の御国において神の祝福を受けることができる(マタイ一三・三六・四三)と語られています。このように、神の国とは神が王権をもって支配することであり、それは終末の時に実現するものでした。

イエスはさらにマタイの福音書二四章一節・二五章四六節(並行箇所、マルコ一三・一・三七、ルカ二一・五・三六)のいわゆる「終末論講話」においても、ご自身の終末観を示しておられます。マタイの福音書二四章三節において、弟子たちは、「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」とイエスに質問しました。

これに対してイエスは終末の前にその前兆があると言われました。それらは、にせキリストの出現(五節)、戦争と戦争のうわさ(六節)、民族と民族および国と国の対立(七節)、迫害と殉教(九節)、背教と裏切り(一〇節)、にせ預言者の出現(一一節)、不法がはびこり、愛が冷える(一二節)、福音の世界宣教(一四節)です。これらの前兆、たとえば戦争と戦争のうわさ、民族紛争、などは今日でも世界のどこかで起こっています。それだからといってすぐにでも終末が来ると早合点しないほうがよいでしょう。イエス・キリストが言われたのは、終末がいつ来てもあわてないように、日々心の準備をして生きることが大切であるということです。

さらに、この「終末的な講話」において注目すべき点は、「人の子」の到来についての言及です(マタイ二四・二九・三一)。この「人の子」とはイエスがご自分を指す時に用いた称号です。二九節の天変地異についての言及は、旧約聖書のエゼキエル書三二章七節、ヨエル書二章一〇節を反映していると見ることができます。これは終末の時に起こる出来事を指しています。三〇節の「人の子」が雲に乗ってくるとは、ダニエル書七章一三・一四節の反映であり、世の終わりに来られる審判者を指しています。つまり、これは終わりの時における、キリストの再臨と、審判者としてのキリストを指しているのです。

二四章三二・五一節には、この終わりの時のキリストの再臨とさばきのために、私たちは常に霊的な目を覚まして心の準備をしているようにとのキリストの勧告があります。そして二五章の「十人の娘のたとえ」(一・一三節)、「タラントのたとえ」(一四・三〇節)、「羊と山羊を分けるたとえ」(三一・四六節)は、キリストの再臨と最後の審判についてのたとえを通しての教えです。

わかりやすい終末論 後半