わが父の家には住処(すみか)おほし
北九州・絆の創造の現場から 第13回 「絆」
奥田 知志
日本バプテスト連盟 東八幡キリスト教会 牧師、NPO法人 北九州ホームレス支援機構理事長/代表
「もう死にたい」「自分は生きていても迷惑をかけるだけだから」。リーマンショック以後、急増した路上の青年たちはそう言ってうつむく。そんな若者の横に座り話し込み少々乱暴な話をする。「君は自信家なんや」。彼らは慌てて否定する。「いえ、自信がないから死にたいんです」。しかし、そうだろうか。彼らは自分自身のことばを信じている。自分が下した結論を信じている。自問自答の中でただ自分のことばだけを聞き、自分を信頼している。「少しは自信をなくして他人の言うことも聞きなさい」と語りかける。
彼らが失ったもの。「住まいと職を失った」と、テレビは言う。しかし、それだけではない。彼らは「絆」を失っている。出会いや他者性を失っているのだ。絆が切れるとどうなるか。第一にいざという時に助けてくれる人がいなくなる。これは深刻な事態で、無援状態の中で人は死に追いやられる。しかしそれ以上に深刻なのは、自分が何者かがわからなくなるということだ。無縁化による「自己喪失」が自己の存在意義を見失わせる。
「お父さん、ヘンな顔してる」。朝食の席で妻から唐突にそう切り出される。朝から喧嘩でも売るつもり?「前からヘンですが……」と憮然として答える。「いや、今日は一層ヘン」と追い打ちがかかる。「な、な、なぬ?」やっぱ喧嘩売ってる? ……喧嘩をしているわけではない。妻は、私がその朝、疲れた顔をしていることに気付いたのだ。「ヘンな顔」とはそういうこと。しかし不思議なことに、人は自分の顔がわからない。朝、洗顔の際、自分の顔は見ている(つもり)なのに、それがどれだけ「ヘンか」自分ではわからない。顔だけではない。「自分のことは自分がいちばんよくわかっている」などと思っている人は少なくないが、どっこい、どれだけわかっているかは疑問だ。
さすがに朝っぱらから「ヘンな顔」などと不吉なことを言われた日には「今日は早めに寝よう」などと思う。それで健康が維持される。人は自分の状態さえわからないのだ。だから他者のことば││他者性が必要なのだ。一時期「自分探し」が流行った。しかし、自分の中をどんなにひとり探っても何も出てはこない。自分を知りたければ他者と出会うしかない。他者のことばが自分を知るヒントとなる。「ヘンな顔している」。この無礼な一言に内心感謝している。
「わたしは自分のしていることが、わからない」(ローマ七章一五節)とパウロは嘆く。欲していることはしないで、欲していない悪を行っている。パウロは「自分は何者であるか」という自己同一性の問いに立っている。そんなパウロは苦しんだ末にこう言う。「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」「だれが││」。そう、パウロは他者へと向かう。絶対他者であるイエス・キリストに。キリストこそが、彼が罪人(元々は迫害者)であること、しかも赦された罪人であることを知らしめる。そして、そんな彼になすべきことを与えてくださる。パウロは自分ではなく、キリストという他者によって自分の存在意義を知る。
その少女は十八歳だった。彼女のことは、小さいころから知っていた。なぜなら彼女の両親もまた支援の炊き出しに並んでいたからだ。当時児童施設に預けられていた彼女は、時折施設を抜け出しては炊き出し会場で母親と会っていた。小学生だったと思う。貧困の世代間連鎖は現実に起こっている。それから数年経って彼女は、ホームレス支援の相談窓口に現れた。十六歳で施設を出て一人暮らしを始めた彼女であったが、いろいろなことがあって家を失った。結婚もしたが上手くいかなかった。行き場がなくなり、かつて出会った相談窓口にりついた。妊娠三か月だった。どうしても産みたい。彼女の決意は固かった。多くの支援を受けつつ出産に備えている。ある日、例の「ヘンな顔」発言のわが妻が彼女と話していた。「あなたはこれからどうしたいの?」。そう問われた彼女は、少し考え込み「私は、しあわせになりたいんです」と語った。若くして人の何倍も苦労した少女はそう答えたのだ。このことばを聞いて胸が詰まった。しかしわが妻は、さらにこう尋ねた。「そう、じゃあ、あなたにとってしあわせとは何」。彼女はうつむき、そして「わからない」と答えた。「そうだ、そうなんだ。しあわせが何であるか、それはひとりで考えていてもわからない。僕もわからない。だから、君はここに来たんだ。みんなの中で生きていくのだ。そして他者との出会いの中で、自分とは何者か。そしてしあわせとは何かを知るんだ。一緒に生きよう」。私は心の中でそう叫んでいた。