わが父の家には住処(すみか)おほし
北九州・絆の創造の現場から 第14回 「帰る場所」
奥田 知志
日本バプテスト連盟 東八幡キリスト教会 牧師、NPO法人 北九州ホームレス支援機構理事長/代表
二〇〇六年一月七日、JR下関駅は炎に包まれた。放火だった。逮捕されたのは八日前に福岡刑務所を満期出所したFさん七十四歳。今回で十一度目の逮捕。五十年近くを刑務所で過ごしてこられた。
これまでの裁判の度に「知的障害」を指摘されてきたにもかかわらず、今回の犯行時においても療育手帳は取得できていなかった。放火は重罪だ。だが彼を断罪することだけが社会のなすべきことか。疑問を抱えつつ逮捕されたFさんを訪ねた。全く面識はなかったが「全く面識がなかったこと」に責任を感じていた。「もし出会っていれば」。そんな思いもあった。じっとはしておれなかった。面会室に現れたのは弱々しい老人であった。
「刑務所に戻りたかった」との理由で放火を繰り返してきた。なぜ放火だったのか。(不謹慎だが)刑務所に行くには他にも方法はある。Fさんは自分のお腹を見せながらこう言われた。
「小学生の時、お父さんの言いつけを守らず遊んでいました。夜中お父さんに風呂のたき口に連れて行かれ、火のついた薪をおなかに押し付けられました。あれ以来、父と火を恨むようになりました」お腹には大きな傷跡が残っていた。
支援を始めるにあたって必ず尋ねることがある。一つは「人生で最もつらかった時はいつか」。絶対に避けるべきポイントを確認するためだ。Fさんは「刑務所を出た時に、誰も迎えにこなかった時」と答えられた。「出所の時には私が必ずお迎えに行きます」と言うと、彼はうれしそうにお辞儀をされた。さらに「人生でいちばん良かった時はいつか」を尋ねる。支援の目標を定めるためだ。しばらくの沈黙。そしてFさんは「やっぱりお父さんと暮らしていた時がいちばん良かったなあ」と仰った。衝撃だった。
すぐに裁判が始まった。争点は、Fさんの精神状態、責任能力、駅を全焼させる意図など。残念ながら、この事件を生み出した社会自体を問うことはなかった。情状証人にもなり、身寄りのないホームレス状態の人が単独で地域生活を始めることが現状ではいかに困難か、今後のFさんを引き受ける覚悟があることなど証言した。その後、Fさんの身元引受人となった。
二〇〇八年三月十二日求刑。この日だけは裁判に出席できなかった。検察側は懲役十八年を求刑した。その夜、傍聴した新聞記者から電話があった。「これまでの裁判では『刑務所にもどりたい』と言っていたFさんが、裁判の終わりになって初めて『社会にもどりたい。奥田さんのところにいきます』と今日証言したんです。僕感激しました」と記者は興奮気味だった。
すでに七十六歳になっていたFさんには、求刑の十八年は長すぎる。生きては出られない。不安を抱えたまま判決を迎えた。「懲役十年。ただし未決拘留期間を六百日認める」。実質八年の判決だった。意外な結果に裁判所がざわめいた。検察側の控訴も十分考えられたが、こちらも控訴断念の嘆願などをし、結果、刑は確定した。
判決当日、夕暮れ迫る拘置所を訪ねた。
Fさんは、いつも通り淡々と「お世話になりました」と仰った。「八年です。Fさん。死んだらいかん。生きてください。生きて出てきてください。あなたにはやるべきことがある。刑務所以外に行き場のあることを皆に示す責任がある。僕も八年間でやるべきことをやりますから。その日、僕が必ず迎えに行きます」と言うと、Fさんは声を上げて泣きだされた。出会って二年、初めて感情を表に出された瞬間だった。「父のところへ帰って、こう言おう」(ルカ一五章)
あの日、ついに放蕩息子は父のもとへと戻っていった。息子の帰りを待ち続けた父は彼を抱きしめ接吻する。私たちには帰るところ(ホーム)が必要なのだ。それは裁きと赦しのある場所││十字架と復活の場所である。
たしかにこの物語は、人には帰る場所が必要であるという事実を端的に表している。だが、実の親といえども「帰る場所(ホーム)」となれない現実があることもまた事実なのである。そんなとき、それでもなお「お父さんと一緒がよかったなあ」と言う息子はどこに帰ればいいのか。
父なる神は、今日も息子の帰郷を待っておられる。
ならば教会はどうあるべきか。教会は果たして「ホーム」となっているか。Fさんとの再会まであと六年。祈りつつ、なすべきことに専念したい。