わが父の家には住処(すみか)おほし
北九州・絆の創造の現場から 第5回 罪人の運動
奥田 知志
日本バプテスト連盟 東八幡キリスト教会 牧師、NPO法人 北九州ホームレス支援機構理事長/代表
二〇〇一年春。私たちは九州で初めてのホームレス支援施設「自立支援住宅」を開所させようとしていた。長年行政に対して「支援施設の設置」を求めていたが、当時はまさに「歯牙にもかけない」対応で交渉は行き詰まっていた。結局「何も行政だけが頼みではない。ならば自分たちでやってみよう」ということになり準備が始まった。開設の数週間前、そのことがニュースで報じられた。するとホームレス状態の方々から次々に問い合わせの電話が入った。直接教会に訪ねてこられた方もいた。「なんとか施設に入りたい」と訴えられる。誰もが切羽詰まっておられた。その気持ちは察するに余りある。私たちは確信した。「この施設は必要とされている」。入居に際しては本人との面接・調査に一カ月を要し運営委員会において結果を審査、入居者を決定する。入居者は半年間ここで自立のための準備をし、その後地域生活へ向かう。一人の方に対して数名のボランティアスタッフが伴走する。涙あり、笑いあり。失われた生活基盤を整え絆(ホーム)を紡いでいく。
しかし、当時確保できたアパートはたったの五部屋。市内には三百名以上のホームレスが存在した。炊き出し会場において入居の申し込みを受け付けた。七十名が申し込まれた。その後、入所者選考会議を行う。会議の冒頭は「いよいよ始まる」「これで路上からの脱出が可能になる」「行政も出来なかったことをやった」など、喜びと自負に満ち、笑顔がこぼれた。だが会議は二時間経っても、三時間経っても終わらなかった。「一体誰が入居できるのか。誰がその人を選ぶのか」。自分たちのやろうとしていることの「重さ」にたじろぎ、恐ろしささえ感じた。選考方針は「高齢の方、病気の方を先ず選びその中から優先順位を決める」だったが、これとて何の客観的根拠があるわけではない。この人を選び、あの人を落とす。でも、その翌日落とされたその方の身に何かが起こるやも知れない。また「住宅入居」という希望を持ったゆえに、落胆や絶望が一層深まるのではないか。誰が一番困っているのか。誰に支援するのが正しいのか。何もわからない自分たちがいた。行っている選考が「恣意的で差別的だ」と言われても仕方がない状況だった。
行き詰まる思い。沈黙が続く。重い空気の中、ホワイトボードにこう書かせていただいた。「罪人の運動」。残念だがこれが事実だ。私たちが行う一切の行為は「罪人の行為」に過ぎない。「いいことしている」では済まされない。人間の愛が人を殺す。それはあり得るのだ。「罪人としてこの運動を担おう。そしてこの決断の責任を回避すまい」。そう確認して選考を終えた。夕方から始まった会議が終わった時、すでに日付が変わっていた。五人が入居し、六十人以上が落選していた。
その後の炊き出しの折、自立支援住宅選考会議の結果をおやじさんたちに伝えた。実施については高齢者を優先したいこと。皆が入りたい気持ちであるのは承知していること。しかし五部屋しかないこと。「ここは、年寄り優先で……、選考に漏れた方々には申し訳ない。でも、あきらめないでほしい。それでも僕らはこのプロジェクトをやろうと思う。どうか理解してほしい」と語りかけた。反応は穏やかなものだった。最後におやじさんたちの中から拍手が起こった。
私たちは「罪人」である。だから私たちのあらゆる行為はイエス・キリストの十字架の贖いを必要としている。これ抜きには何も成立しない。「神よ、どうかこの罪人たちをお赦しください。何をしているのかわからずにいるのです」(ルカ福音書二三章参照)。十字架上で主イエスはそのように祈ってくださった。全くその通りなのだ。何をしているのかわからない私たちがホームレス支援をしている。実は、日々の暮らしも、恋愛も、子育ても、介護も罪人の行為である。いや、それどころではない、実は伝道も牧師の説教も罪人が行っている。教会で傷つく人がいる。それは教会が罪人の集団に他ならないからだ。だから私たちはこう祈る。
「主よ、私たちにはあなたの十字架が必要なのです。私たちの行為は罪人の行為に過ぎません。どんな美しい愛の行為であったとしても、あなたの十字架の贖い抜きには成立しません。主よ、どうか今日も私たちを十字架上でとりなし祈ってください。そして入居できなかった人々をお守りください」。
そう祈りつつ僕らは罪人の運動を続けてきた。