わが父の家には住処(すみか)おほし
北九州・絆の創造の現場から 第8回 黙れ
奥田 知志
日本バプテスト連盟 東八幡キリスト教会 牧師、NPO法人 北九州ホームレス支援機構理事長/代表
藤崎巌さんと出会ったのは一九九四年。その頃の僕は毎週深夜駅前に藤崎さんを訪ねていた。当時すでに六十歳代後半だった藤崎さんの首は腫瘍のため曲がっていた。居宅の設置、いや何よりも入院を勧めたが本人は一切は応じず「もういいです。放っておいてください。もう死にますから」とくり返すのだった。それでも、何度か病院に行く約束を取り付けた。当日朝の病院のロビーで藤崎さんを待つ。しかし、藤崎さんは現れない。後日「何で来んかったん」と尋ねる僕に「もういいです」といつものセリフをくり返す藤崎さん。「もういいです。死にますから」は、僕のどんな説得の言葉よりも説得力があり、絶望的であるゆえに絶対的な響きをもっていた。「死んでもいい」と言い切る人の前で「そもそも人は生きなければならない」という「理屈」は崩れ去る。果てしない空しさが奈落の底へと僕を突き落す。イエスは、しばしば病人を癒された。「治りたいのか」と尋ねられるイエス。そんなイエスにお尋ねたい。「もしあなたが治りたいのかと尋ねられた時に『もういいです』と答えたなら、あなたはどうされたでしょうか」と。当時僕を支えてくれたみ言葉がある。マルコによる福音書一章。それはマルコにおける最初の奇蹟の場面であった。けがれた霊につかれた者が会堂でイエスに向かって叫んだ。「あなたはわたしとなんの係わりがあるのです」(口語訳)。これを「かまわないでくれ」と訳す者もいる。その時イエスは「黙れ」と一喝された。この人は、その後癒され、これを目撃した人々は「権威ある新しい言葉」を聴いたという。このイエスの「黙れ」は藤崎さんに対する希望だった。そしてそれは、僕に対する宣言でもあった。なぜなら当時「何を言っても無駄だ。本人次第だ」という諦観が僕を支配しようとしていたからだ。イエスはそんな僕に「黙れ」と一喝されたのだ。それは誰よりも「権威ある言葉」として、僕らの中に響いた。以後七年間藤崎さんのところに通うことになる。その日もいつもと同じように藤崎さんを訪ねた。「はい、お弁当」。「ありがとう」。「アパート準備しましょうか」。いつもなら「もう、いいです。放っておいてください」「では、また」と続く。しかし、その日は違っていた。「はい、お願いします」と藤崎さん。何が起こったのかわからない。しかし、その日は来たのだ。だから、勝手に諦めるのは申し訳ない。「五回言ったからもうダメだ」とも言えない。六回目かも知れない。神様の時は、人には所詮分からない。でも常に「時にかなって美しい」(伝道者の書三章)。アパートに入られてからの藤崎さんは、別人のように明るくなられた。笑顔が素敵なおじいちゃん。しかし、平穏の日々は長く続かなかった。首の腫瘍はどんどん大きくなっていった。ボランティアでチームを作りターミナルケアの体制を取る。本人はなるべく入院したくないとの意思を明確にされていた。最後の闘いの日々もそう長くは無かった。遂に入院。見舞いに通う日々が続いた。ガンが声帯を冒し、すでに声は出なかった。会話はもっぱら筆談となった。亡くなる前日。病室を訪ねた。「書きますか」と尋ねると、もう書けないと手で示された。聖書を読んで祈った。すると藤崎さんが手で「書きたい」と合図される。筆談用のノートを顔の前に差し出すと震える手で藤崎さんはこう書き残してくださった。「奥田先生ありがとう」。ヨレヨレの字だった。涙があふれた。「こちらこそありがとうございました。あなたとあえて良かった」と言いたかった。翌朝、藤崎さんは静かに息を引き取られた。アパート入居後半年が過ぎていた。人は、いつか変わる。それがいつかは、人にはわからない。だが、時は備えられると信じる。だから、諦めない。「もういいです。放っておいてください」と言っていた人が、「ありがとう」と言って逝く。神様の働きだと思う。神は、傲慢な僕らに「黙れ」と迫り、為すべきことを示される。聖書の神は、生きて働いておられる。だから僕らは諦めない。諦めそうになったならイエスの「黙れ」に一喝されたい。