イエスさまに出会った少年の物語 第2話 溢れたパンと魚

橘由喜

〈前号までのあらすじ・六十年前、九才の時、イエス・キリストに出会った老人は母に作ってもらった弁当を抱えてイエスの後を追いかけてきた。〉

 わたしは、イエス様のすぐそばでうずくまって聞きながら、早くこの弁当をお渡ししたいと、ドキドキしながら機会を狙っていた。もう夕方だったし、早くイエス様に弁当をお渡しして、わたしも家に帰らなければと思っていたのじゃ。

 だがイエス様のお顔を見ているうちに、なんだかな、こんな貧しい弁当をお渡ししていいのか、という思いが出てきたのじゃ。渡そうかどうかためらっていたとき、ちょうどお弟子さんの声が聞こえたのじゃ。

 「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群集を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください」

 何と? 帰れだと? せっかくイエス様にお会いできたのに。……わたしはうらめしくなってお弟子さんを睨み付けた。人々もざわめきだした。その時、イエス様が思いがけないことを言われたのじゃ。

 「彼らが出かけていく必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物をあげなさい」

 誰よりも驚き、焦ったのはお弟子さんたちであったろう。お互いに顔を見合わせて、キョロキョロし始めたのだ。こんなに大勢いるんだから、誰かが食物をもっているのではないかと思ったのかもしれない。でもみんな貧しい人ばかりだ。人の分どころか、自分の食べる物だってない人もたくさんいる。

 わたしも腹はすいていた。だがな、一日中休む暇もなく働かれたイエス様はもっと腹ペコだっただろうよ。わたしは思い切って持っていた弁当をイエス様にだけでも食べていただこうと思って、両手で抱えてイエス様のほうへ進んでいったんじゃ。

 そのとき、お弟子さんが、それをすばやく見つけていきなりわたしの手から取り上げて、こう言ったんじゃ。はっきり覚えておる。

 「ここに少年が大麦のパン五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんな大勢の人々では、それが何になりましょう」

 せっかく母がイエス様のために準備して持ってきた弁当なのに、勝手に取り上げておいて、さらになんて冷たい言い方なんじゃ。正直言って腹が立った。わたしは思わず涙ぐんだ目でイエス様を見上げた。そしたらイエス様も、じっとわたしを見つめておった。そりゃあやさしいほほえみだった。そして、今度はお弟子さんのほうを向き、静かにこう言われたんじゃ。

 「それをここに持って来なさい」

 お弟子さんは、怪訝な顔をしてその小さな包みをイエス様に渡した。わたしは嬉しくなって腹が立っていたことも忘れてしまったよ。なんといっても、とうとう弁当がイエス様の手に渡ったのだから。イエス様は、丁寧に両手で弁当の包みを受け取られた。わたしはまた感激してしまった。涙がでたねえ。


 それからイエス様は周囲を見回してからお弟子さんたちに「人々を座らせなさい」と、言われたのじゃ。

 お弟子さんたちは、ざわついていた群集を身ぶり手振りで座らせ、自分たちも座った。立っておられるのはイエス様だけじゃ。すっと立たれた姿を夕日が照らして、ほんとうに絵のようじゃった。

 それからイエス様は、弁当の包みから魚とパンを取り出し、両手に載せて高くかかげ、しばらく天を見上げておられた。どうしたんだろう、何をなさるんだろう、わたしも群集も息をのんでじっと見守っていた。


 いつくしみと権威に満ちたお声だった。

 「父よ。この手の中にあるささげものを祝福してください。彼らを祝福してください。あなたの栄光を現してください。今、そうしてくださることを感謝します」

 その祈りは、静まり返った荒野をやさしく包むようだった。わたしははじめて聞いたあのイエス様の祈りを今もはっきり覚えておる。

 ああ、それからどんなことが起こったか…

 するとどうじゃ。その回りがキラキラと光りだしたのじゃ。その光は決して強くはなかったし、音もなかった。しかし、夕暮れの荒野の真ん中にあたかも天使が舞い下りたような、そんな神々しい光だった。

 奇跡はその光から起こった。光の中からふっくらしたパンが音もなく後から後から溢れてきて、草原にこぼれ落ちた。パンの上にまたパンが溢れて…イエス様の回りは香ばしいパンの香りで包まれた。ああ、忘れられんよ。キラキラした柔らかい光の中からころころころころと小躍りするようにパンが生まれてくるんじゃよ。

 だれも声を出す者はなかった。というより声もでなかったわ。

 そしてな、どこからともなく、大きなかごが引き寄せられるように用意されたのじゃ。回りが薄暗くてよく見えんかったが、近くの果実園の主人が届けてきたのかもしれんな。

 ようやく我にかえったお弟子さんたちが、そのパンを丁寧にかごに入れ始めた。十二人のお弟子さんが懸命にかごに移すんじゃが、とても間に合わん。パンは生きてるように踊りながら次から次へと生まれてな。人々はそのたびに後ずさりするんじゃ。パンに道を空けるようにな。

 どのくらい時間がたったのか。ようやくパンが全部のかごに満杯になったとき、なんと、今度は魚じゃ。薫製の小魚が、まるで生きているようにイエス様の両手からこぼれてきたのじゃ。その魚の大群はあたかも草原に湖でもあるかのように泳ぎ出した。ははは、そうじゃ、わたしにはそう見えた。うねるように跳ねるようにその数は広がっていった。

 最初は声もなく見ていた群集は、お弟子さんが疲れきっているのに気付いて、今度は人々が持ち合わせの布や腰の手ぬぐいを広げてその魚を包みはじめた。そっとそっと大切にな。やがて魚の包みでイエス様の周りは、土嚢を積み上げたように魚の包みで輪ができあがった。

 するとそれまで両手を天に向けておられたイエス様は、今度は両手を広げて人々を祝福され、感謝の祈りをささげられた。それから大きなお声でお弟子さんたちにこう言われたんじゃ。

 「全員に十分に配ってあげなさい。子どもにも女性にも。好きなだけあげなさい」

 それまで声もなかった群衆から、このときはじめて歓声があがった。だが、そのおびただしい量を目の当りにしているから、だれも焦ったり奪い合ったりはせん。

 歓声は拍手になり、感謝の祈りとなった。そして人々は配られるのを静かに待っておった。

 つづく