イエスさまに出会った少年の物語 第7話 見届けた十字架

橘由喜

〈少年のころ、イエス様に出会った老人が、思い出を語る。久しぶりに出会ったイエス様は、見るのもつらい姿で十字架を背負っていた。〉

 わたしは腹の痛みをがまんしてゴルゴタの丘に向かって走った。気ばかりあせって足がからみ、何度も転んだ。喉がカラカラで声が出なかった。

 やがて遠くに小高い丘が見えた。ゴルゴタの丘だ。めったに人もこないうすきみわるい丘だ。その日は、どんよりと曇った湿っぽい日だった。汗と一緒に涙があふれてくる。遠くに三本の十字架が見えた……が、何ということじゃ。三本の十字架の中央にイエス様が見えるではないか。

 太陽は真上に来ていた。昼をとうに過ぎたようだ。すでに人びとは去った後らしい。さっきまでの罵声や怒声は影をひそめ、そこにたたずんでいるのは女たちだった。

 わたしの足は止まった。どうしてそのまま進めようか。十字架上のイエス様をどうして見上げることができようか。わたしは十字架のはるか手前でひざまずき、泣き出した。わたしの後からも次々と人がやってきたが、その人たちもわたしの近くにひざまずくと泣いておった。

 ほとんど女性じゃった。その悲しみの声はだんだんと大きくなり、女性たちはその場につっぷして泣きじゃくっておった。


 ふと聞き覚えのある声が耳に届いた。まさかと思って振り返ると、何とそこにあのサマリヤの女性がいたのじゃ。

 ああ、そのサマリヤの女性も泣いている。両手で土をたたいて頭をかきむしって泣いている。わたしはそっと近くににじり寄った。そしてそっと肩に手をかけた。彼女は涙でくしゃくしゃの顔を上げていぶかしそうにわたしを見たが、その目にみるみる涙があふれた。

 「ああ、あなた。あのときの少年ね。ああ、どうして、どうして……」
 「こんなところで……イエス様が会わせてくれたんだ」
 わたしたちは抱き合って泣いた。

 「もう十字架にはりつけられてから、三時間にもなる。ああ、イエス様、私が代われるものなら……」

 そう、わたしは三時間以上も気を失っておったらしい。そのおかげで十字架に打ち付けられるイエス様を見ずにすんだ……いや、いや、そうじゃない、あれからずっと、十字架の上でイエス様は苦しみを全身で受けとめておられたのじゃ。おお、何ということじゃ。


 むごい。むごすぎる。

 そうじゃ、イエス様は人間の罪の身代わりになられるためにこの世にこられた。そして十字架にはりつけられたのじゃ。

 今になればな、その真理がよう理解できる。そうなのじゃ。それほど人間の罪は厳しく罰せられなければならないのじゃ。罪とはそれほど神と人とを引き離すものなのじゃ。

 だが、少年のわたしには十字架の意味などとうてい理解できなかった。しかしな、当時のわたしは小さいなりにこの十字架がただごとではないことを感じ取っていた。イエス様が理由なく殺されるはずはない。

 わたしは、よろけながらも立ちあがった。それはな、十字架を見届けなければならない、その目撃者でなければならないと、たましいの底から突き上げてくるような叫びが聞こえてきたからじゃ。

 「行こう、おそばへ……」

 わたしは強引に彼女の腕をつかんで一歩一歩、十字架に向かって歩み出した。


 突然、それまで日がさしていた空に黒雲がたちこめ、あっという間に巨大な両手のように左右からからみあい、全地が暗くなった。

 落雷がとどろき、稲妻のような光が、十字架を突きさしたかのように見えた。

 その中に十字架のイエス様が、シルエットのように浮かび上がったのじゃ。

 見届けなければ、見届けなければ、はやる思いと深い悲しみに押しつぶされそうになりながら、彼女とわたしは意を決して立ち上がった。そしてなまりのように重くなった足を無理やり引きずるようにしてイエス様の十字架に向かって歩き出した。

 風が砂を舞い上げ、黒雲はあたかも大地を覆うかのようにどぐろを巻いてゴルゴタの丘をすっぽり覆っておる。

 女たちは黒い衣で全身をくるむようにして地面につっぷし、ある兵士は無言で暗い空を見上げていた。とんでもないことが起きたと感じていたのじゃろう。わたしと彼女が十字架に近づいても止めるわけでもなく、兵士たちは集まって、気味悪そうにささやき合っておる。

 黒雲は一段と速さを増して空をさえぎり渦を巻いている。わずかにいた人びとも激しい稲妻と黒雲におびえるように我先にゴルゴタの丘を駆け下りていった。

 わたしはとうとう十字架の足元に近づいた。天からの淡い光が十字架とイエス様をそっと包むようにさしこんでいる。

 「イエス様……」

 わたしは黒土に深く食い込んでいる十字架を抱きしめた。そして、そっと目の高さにあるイエス様の足に口づけをした。両足が重ねられ、その足の甲に太い釘が打ち込まれていた。流れ出た血は荒削りの十字架を濡らし、そして黒土に染み込んでいった。

 わたしはもう何も聞こえなかった。何も見えなかった。わたしはずっとそこにうずくまっていた。


 どのくらい時間がたったのか……ふと天から声が聞こえたような気がした。わたしは思わず目をあげて十字架のイエス様を見上げた。うっすらとさしこむ天からの光を受けて、イエス様の十字架が、なぜか黄金色に輝いたように見えた。

 そのとき、イエス様が、小さな、しかししっかりしたお声で言われたのじゃ。

 「父よ。わが霊を御手にゆだねます」

 そして息を引き取られた。午後三時になっておった。

 「ほんとうにこの方は、正しい方であった」

 いつの間にか、わたしの隣にいた兵士がつぶやいた。そして両ひざをかがめて深く頭を下げたまま動かなかった。


 十字架から取りおろされたイエス様は、ヨセフという金持ちが引き取り、真新しい墓にていねいに葬られたと、翌日町のうわさで知った。

 つづく