ウツと上手につき合うには 第8回 自己理解と自己洞察を


斎藤登志子

以前通っていたクリニックの医者は「自己理解と自己洞察を深めなさい」と、いつも口癖のように言っていました。ですから、いつの間にか患者の私も、自己理解と自己洞察を深めることが癖になりました。

これまでこの欄で、ウツに対するさまざまな心構えについて書いてきましたが、それらはすべて自己理解と自己洞察の賜物です。

クリニックの医師は、「病気になったのは直さないといけない悪いところがあるからだよ。それを考えるために病気になったのだ」と、病気の意味について語りました。

うつ病になる人はだいたい真面目で人間的にも優れている面が多いと思うのですが、その反面、病気になったのは自分のせいではない、自分は間違っていないという傲慢な考えを持っていることもあると思います。

医師のことばは私の「自分は悪くない」という思いにぐさりと突き刺さりました。自分が間違っていたかもしれないと考え始めるところから、私の自己理解、自己洞察は始まりました。

「なぜ自分はうつ病になったのか」に始まり、「どういう時にウツに陥りやすいか」とか、「どうすればウツを避けることができるか」といろいろ考えるようになりました。そこから、自分のウツになりやすい考え方の悪い癖や、性格のゆがみについて理解が深まってきたわけです。

さて、自己理解と自己洞察は何も精神医学の専売特許ではありません。キリスト教の修練の中にも自己理解と自己洞察を助けるものがあることに気づきました。それは黙想です。

ある人から勧められて、私は毎日十五分の黙想の時を持つようにしています。十五分間の完全沈黙です。その間は声に出して祈ったり、聖書を読んだりはしません。ただじっと、自分の心の声に耳を澄ませるのです。

初めのうちはさまざまな雑念がわいてきますが、やがてざわざわとして落ち着きのなかった心が静まっていくのがわかります。これはウツに伴う不安などの症状にも効果があるので、ウツに悩む人にも勧めています。

黙想のほかにも自己理解、自己洞察を助けるものがあります。花や木、人の顔などをじっと見つめて思いをめぐらす「観想」という修練です。

どうも私たちは神様を聖書の中、教会の中、日曜日だけに限定する傾向があるように思います。日曜日に教会へ行って聖書の話を聞かないと神様に会えないと思っていませんか。

病気で礼拝に行けないときはどうすればいいのでしょうか。ベッドに横になったまま、庭の花を見つめているだけでも礼拝にならないでしょうか。心の目を大きく開いてみるならば、生活のあらゆるところに、あらゆる人や物の中に神様を見出すことはできるのです。

神さまありがとう

疲れた心と体をひきずって歩いていると、
道路のアスファルトのさけ目から芽を出した草が
小さな花を咲かせていました。

こんなとき
「神さまありがとう」
と、言いたくなります。

丹精こめた薔薇も美しいけれど、
道端の小さな花もわたしは好きです。

神さまがわたしのために
特別に咲かせてくれたような気がするから。

神さまがわたしをなぐさめるために
咲かせてくれたような気がするから。

小さな花を見つけた日、
小さなよろこびが心の中にひろがります。

(『傷つきやすいあなたへ』木村藍 著、文芸社より)

たしかに神様は「天にも地にも満ちておられる」(エレミヤ二三・二四参照)のです。

自然の中に、一輪の花の中に、そして何よりも日々ふれ合う人々の中に神様の姿を見出すときに、私たちの心は引き上げられ、高い視点から自分を見つめ直すことができるのです。

 

ウツと上手につき合うには 第9回 律法主義からの解放