エステル記を読む前に エステル記の時代

稲垣緋紗子
日本福音キリスト教会連合 岩井キリスト教会副牧師

エステル記は困難な中で祖先が神に守られたことを伝える。ユダヤ民族は全滅させられる運命にあったのが劇的どんでん返しになったと、ありったけの表現力を駆使して語る。史実にどれぐらい基づくかと、物語に魅了されればされるほど、そこのところが気になる。

書物が記す世界はペルシアのアハシュエロス王の治世(紀元前四八六~四六五年)である。アハシュエロスはダリヨス一世の子、継承者である。ダリヨス一世時代といえば、エルサレムで神殿修復が起こり、その治世の紀元前五一六年に完成された。そして、そもそもペルシア時代発端の紀元前五三九年、アケメネス朝ペルシアの創始者クロス大王の命令により、バビロンで捕囚だったユダヤ人がエルサレムへ帰還を許された。だが実際の帰還者はわずかで、六十年たっても大多数はペルシア帝国東半分に留まっていた。大都市にいる者も多かった。

一民族を全滅させようとするハマンの案を(エステル三・九)、アハシュエロスが是認したとは考えられないとされたことがある。だがクロスを寛容と見るあまり、後継者を慈悲深く好意的と見るのは判断力に欠けた。アケメネス朝ペルシアがアッシリアやバビロニア同様、住民の捕囚を政策の一環としたと物語る実例が列挙されたのである。それは、現実のアハシュエロスを垣間見させることになった。エステル記にある法令を発しても良心に咎めはなかったろう。

ヘロドトスの『歴史』は三分の一をアハシュエロス(クセルクセス一世)にあてるが、そこからの印象も同じである。それにしても、エステル記が扱うのと同じ世紀のヘロドトスの文書が存在するのは驚くべき摂理による(ヘロドトスは紀元前四九〇年から四八〇年の間に生まれた)。

紀元前五世紀のペルシアの碑文も裏づけになる。ペルセポリスの浮き彫りで、アハシュエロスは父ダリヨスの王座の後ろに立つ皇太子として描かれ、ダリヨスが複合宮殿の土台に封じ込めたものには、エステル記に記される異国情緒あふれる建築材料が列挙される。この書が記す事件と、アハシュエロスの治世に関する他資料の内容は一致する。帝国の版図、首都。早馬に乗る急使(三・一三、八・一〇)、服喪の禁制(四・二)、絞首刑(五・一四)。どれも、エステル記の出来事が起こった正真正銘のペルシア世界に典型的なものである。

一九八三年に画期的論文が登場したことを忘れてはならない。紀元前九世紀のアッシリア高官名で呼ばれるさいころの銘文には、なんとエステル記の記す「プル」という単語があることが発見されていたのだが、発見を公表した一九三四年のニュースを、その論文が転載した。ひとつのさいころの発見が、古代世界は運命という観念に依存していたことを裏付けたのである。

プリムの祭りの由来として、以前は史実に基づくとは考えられないと思われていたエステル記の事件が、まじめに受け止めなければならないものに変わったのはいうまでもない(「プリム」は「プル」の複数形)。

だが、エステル記には現実離れした特徴が依然として見られる。何か月も続く宴会(一・四)、一年間の化粧準備(二・一二)、ハマンの絞首台の高さ(五・一四)、ユダヤ人に殺された者のおびただしい数(九・一六)などである。

また、多くの学者は、不思議で破格なめぐりあわせで事が運ぶのを、史実に基づく事件よりフィクションに顕著な特徴と見る。言い換えれば、史実に基づく要点を含むと判定する。技法的付加部分を除くと、不可能だったりありえなかったりする点は見られないと結論を下す。

だが、その証拠は明瞭と言えない。その判断は決定的でないのである。そこで現代の学者は、歴史的重要度は多くはないと見てエステル記を軽視する。この書が記す、ユダヤ人のまさに存在への脅威を、まじめに受け止めてはいないといわれても仕方がない状況である。