キリスト教史を学んでみよう -1 キリスト教史を学ぶことの意味
中村 敏
新潟聖書学院 院長 新潟聖書教会 牧師
私は、日本キリスト教史の研究を自分のライフワークとしている。歴史に興味を持つようになったのは、大学三年生のころであった。私が学園生活を送ったのは、一九六八年から七二年までで、ちょうど学園紛争のまっただ中であった。
そうした中で、現在起きていることをしっかり見つめ、将来を展望するには、どうしても歴史を学ぶ必要があると痛感した。特に、武田清子著『人間観の相克』(弘文堂新社)という思想史の本を読み、「うん、これだ!」と思ったことを今でもよく覚えている。それ以降ずっとキリスト教史、特に日本キリスト教史を学び続けている。
それでは、キリスト教史を学ぶことには、どのような意味があるのだろうか。
現在を知る
キリスト教史は、私たちが今生きている現在を知る上で大いに価値がある。たとえば、現在の日本には、百をはるかに超えるプロテスタントの教団が存在し、私たちもそのどれかに所属している。クリスチャンは日本の総人口の一パーセントに満たないのに、なぜこのように多くの教派に分かれているのだろうか。
この問いに対する答えをさぐるには、十六世紀の宗教改革にさかのぼる必要がある。ルター派、改革派、再洗礼派に大別されるプロテスタント宗教改革の流れは、さらに神学、礼拝形式、聖餐論争をめぐって、細かく分かれていった。また信仰復興が新たな教派を次々と生み出していったという背景があるのだ。
このように教会史を学ぶことを通して、現在の自分たちの霊の祖先を知ることができる。
とにかく、現在の教会が直面している問題は、しばしば過去の教会史を知ることによって光を与えられるのではないか。
教訓と警告
パウロが、1コリント十章六節で、「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです」と言うように、教会史は私たちに教訓や警告を与えてくれる。たとえば、教会史における大きな出来事として、キリスト教がローマ帝国の国教になったということがある。それまでのキリスト教は、国家に敵対する宗教として徹底的に迫害され、多くの殉教者を出した。
ところが四世紀に入り公認されると、国から保護される国教にまでなった。これは確かにすばらしいことと言えよう。もう殉教する人はいなくなったし、国の支援のもとに立派な会堂が立ち、人々は教会に通うようになったのだから。
しかしその反面、新生体験のない教会員が多いので、霊的水準は低下し、教会が世俗化した。伝道しなくても人々が信者になるので、当然ながら伝道意欲は低下した。
さらに問題となのは、ニケーア公会議の召集に見られるように、国家が教会に干渉するようになったことである。教会と国家の関わりは、キリスト教会にとって大きな課題であり、古くて新しい問題であることがわかる。
これらの教訓を通して、日本のキリスト教の将来を考えてみると、日本の教会の目標が、日本の宗教人口の中で多数派になるとか、ましてや国教となることではないと思うようになった。むしろ、「地の塩」「世の光」として少数派であっても日本の社会の中で、強力な証をしていくことではないだろうか。