キリスト教良書を読む  第10回 No.10『新装 教会』

工藤信夫
医学博士

フィリップ・ヤンシー 著
宮川経範、宮川道子 訳
いのちのことば社

神の教会

教会は「キリストのからだ」(エペソ1・23)であり、この地上における宣教・伝道の任を委ねられた神の働きの拠点とされる。だが、現実に〝神の教会”の名にふさわしい教会など、この地上にまた身近に存在するだろうか。
本書は、「神を礼拝したいと願っていたのに、教会が手助けにならず、むしろ障害物となった経験をもつC・S・ルイス」(二〇頁)について述べているが、今日の日本でも、様々な事情で教会に行けなくなった人、行かなくなった人のほうが多いのではないだろうか。あるいは、教会の役員会や奉仕活動に追われ、かえってわずらわしさを感じている人たちも少なくないのではないだろうか。聖書を見ても、この教会の混乱は明らかである(コリント人への手紙第一)。
本書は、キング牧師は「(ビリー・グラハムを引き合いに出して)、日曜日の朝十一時は最も差別的な時間だと言った」(二七頁)というし、キェルケゴールは、「教会を一種の劇場のように考える傾向にある人たち」(二三頁)がいると言及している。彼らは、「教会をパフォーマンスの場のように見て、自分の好みのものが出てくるのを待つ」(二三頁)が、それは問題だ。たしか私も、一九七〇年代アメリカに、車の中でイヤホンをつけ、駐車場で礼拝に参加する教会があると聞いて、驚いたことがあった。
またパスカルは、「キリスト教は、民衆を内的なものへと引き上げ、高慢な者を外的なものへと引き下げる。そして、それらの二つがそろわなければ完全でない」(七一頁)と言ったようだが、これもまた、私たちの現実から遠い。

ヤンシーの模索

著者ヤンシーもまた、神学校を最優秀で卒業しながらも教会に失望し、理想の教会を求めてカトリック教会、ロシア正教会に足を運んだひとりである。彼は試行錯誤の末、教会は「罪を犯して神の栄光を受けられなくなった人たちで構成され」、「クリスチャンはだれでも、教会もまた始まりにすぎないということを学ばなければならない」(一二一頁)との結論に到達する。これは、私たちが教会に安易に、また無責任にさまざまな要求を突きつけたり、いたずらに理想の姿を求めたりすることは差し控えるべきだという意味であろう。といっても、これは必ずしも欠けの多い今日の日本の教会に自己吟味を迫りこそすれ、安易に現状を是認したり、正当化してよいという意味ではないに違いない。
ヤンシーは、黒人男性アドルファスに対する教会の対応から、「生きて働く恵み」について学んだという(三六~四〇頁)。この男は、「すでに三つの教会から追い出されていた」が、「白人を不安がらせるのがおもしろいので人種差別がない教会」に通い、「白人野郎の牧師」の家が焼けるように祈るような人物だった(三八頁)。しかし教会はアドルファスを見放さず、「神の恵みを体験したクリスチャンたち」(四〇頁)が立ち直りの機会を与え続けたのである。彼はやがて結婚もし、教会員となった。このエピソードは、これからの日本の教会を考える上で示唆深い。

教会の変化

もうひとつ、これからの教会を考える上で示唆深い話が載っている。ある小児科医が、重度の知的障がいを持つ子らの人生に「どんな意味があるのか」(九四頁)と自問し、若いヘルパーたちから得た所見である。
●(知的障がい児と関わって)人生において初めて、私は何か本当に意味のあることをしているように思った。
●人間の苦しみに対して以前より敏感になり、自分の中に、助けたいという願いが起こってきた。
●仕事が新しい意味と目的を帯びてきた。今、私は自分が必要とされていると感じる。この医師もまたヤンシー同様、教会の存在理由を発見する。教会は人々の痛み、悲しみのゆえに存在するという事実である。教会は、「神の応急センター」(六三頁)なのだ。

教会の本質

ヤンシーは、「痛みに敏感」(八八頁)なことを感謝するようになり、私たちをうちのめす涙が私たちに「益をもたらす」(九六頁)ことを知った。そして彼は、「奉仕の精神こそが……教会の唯一重要な特徴」(九七頁)だと見いだすのである。しかし現実には、人は教会に自分の義と祝福を求めることこそすれ、他人の痛みにも、関わりにも無関心で、その心は冷淡であることが案外多いのではないだろうか。〝良きサマリヤ人のたとえ”が講壇で語られるわりには、手指一本動かさない人々が多いのではないだろうか。私は著書『人生の秋を生きる』(いのちのことば社)で、ホームレスの人も集う教会のエピソードを記し、新しい世代の教会はさまざまな立場の人々が安心して集える地域共同体であってほしいと記したが、教会の受肉化、ヤンシーの言う「神の身体性」が、これからの教会に求められている気がする。