キリスト教良書を読む 第11回 No.11『「べてるの家」から吹く風』
工藤信夫
医学博士
教会の本質
前回、教会の本質を〝人間の痛みと悲しみに対する共感と連帯”に求めたフィリップ・ヤンシーの模索の旅を紹介した。ヤンシーは、多くの痛む人々の取材活動を通して、痛みに対する感性と、それに基づく実際的な労苦・連帯が共同体の根底であることを実感したのであろう。
しかし、私たちの身近にある教会の現実は必ずしもそうではなく、またそれに近づこうとする努力も乏しいのではないだろうか。これを、医療現場から福祉教育に移った自分の体験とともに考えてみたい。
医療は概して「診断」「治療」であるのに対して、福祉は「生活」と言ってよい。治らない病気・障害を抱えた場合、支援のテーマは、その人をどう支え、どのように生活の質を高めるかに置かれる。日常生活をどう過ごすか、というこの事情は、宗教においても同様であろう。
ところが、私たちが周りに見るキリスト教は必ずしもそうではない。その主眼は主に礼拝であり、みことばの解き明かしという知的理解にとどまるゆえに、神はしばしば、教会の中に閉じ込められてしまうことになる。医学生のころ、私がクリスチャンになったことを証したときの友人の一言が思い出される。「カトリックのマザー・テレサが、バケツひとつと雑巾一枚を持ってニューヨークに出向く姿には感動したが、プロテスタントの中で“世紀の伝道者”と称えられているある人物は、大邸宅に住み、多額の税金を納めているという。どちらが本当のクリスチャンか?」答えは、イエス・キリストというお方がこの地上に下られた事実を考えてみれば一目瞭然だろう。
「べてるの家」のこと
北海道浦河町にある、精神障がいなどを抱えた人たちがともに暮らす共同体「べてるの家」。その働きの注目点は、以下にあると思われる。
a 全員参加
「三度の食事よりミーティング」と言っているそうだが、べてるの家では、一つの決定事項に一人ひとりの意見が反映される。これに対してこの社会での働きは、ほとんどがトップダウンである。すると決まって現場との乖離が起こる。当然、下の者は働かされるのだから、主体的に関わっていくことは困難になり無責任になってしまう。
b 一人ひとりの体調に合わせて
べてるの家は、その初期からフレックスタイムが導入されていたようである。たとえば、体調の悪い人は午後から。うつの人なら、さしずめ日内変動があるはずだから、午後からあるいは夕方からそのノルマを果たすことになる。こうすれば、仕事ができていないという罪責感が緩和される。
c 土壌の豊かさ
べてるの家の土台は「土壌の豊かさ」にあるのではないだろうか。病気・障害という否定的に捉えがちなものの中に、じつはその人の存在証明を豊かにするものがあることを著者は体験的に知っているのだろう。これは一時期言われていた、過剰なまでに清潔を重視した日本社会が「回虫」を追い出したせいで、逆にアレルギー疾患に苦しめられるようになったという説を思い起こさせる。排除の世界ではなく、共生の発想である。この主張は、コリント人への手紙第一、一二章にある身体全体の器官が必要であるという聖書のメッセージそのものである。
神のことば
『医療の心、福祉の心』(いのちのことば社)の中に、京都山科に精神障害者の援助施設「からしだね館」を作られた坂岡氏の印象深いことばがある。
現在、本紙でも連載をしているが、彼はある日、キリスト教とは縁遠い理事長から「毎週日曜日に教会に集まって、賛美歌を歌ったり祈ったりしているようだが、あなたがた(クリスチャン)は教会の中でいったい何をやっているのか?」と言われ、「教会こそ、精神障がい者福祉施設の建設に取り組むべきではないか」(一七一頁)と気づかされたという。「破れを繕う者」(イザヤ書58・12)ということばがあるが、争いと悲しみに満ちたこの世に、神のことばはその実現を待っているのではないだろうか。
私たちの現場
昔、学生時代に熱心なクリスチャンであった女性が、医療現場の現実に触れて心を痛めたのか、朝の礼拝の中で「(学生時代の)私たちの働き・動きは、“伝道ごっこ”だったのではないか」という意味の反省を述べられたことがあったが(『人を知り、人を生かす』一三三頁)、今日でも私たちキリスト者の働きが「伝道・礼拝ごっこ」の域を出ないとすれば、悲しむべきことである。キリスト教信仰に「受肉」という概念があるが、神の「身体性」こそ、キリスト者が世に提供できることの一つに違いない。