キリスト教良書を読む  第9回 No.9『ガリラヤのイェシュー』

工藤信夫
医学博士

神のことば
キリスト者にとって聖書のみことばは、いのちそのものである。キリスト者とは聖書を神のことばと信じる人々のことだからである。それゆえ、その翻訳の重要性は言うまでもなく、その責任たるや重大なものである。
しかし、今私たちが手にしている聖書が、主イエスの言われたことばそのものであるか、また御思いを正しく伝えているのか、ということになると、事態はそう単純ではない。古来さまざまな訳があるからである。
宗教においては、その教祖が本当にそう言ったのかということが大きな問題となる。昔友人から、浄土真宗の宗祖である親鸞の『歎異抄』は、当時都に流布していた親鸞の教えが本物かどうか、京都の信徒が関東に使いを送り、その真偽のほどを尋ねたところから始まると聞いて、ひどく驚いたことがある(「歎異」とは、異なることを嘆くの意)。当時のことだから、その長旅はいのち懸けの大事であったに違いない。後日、私はやはり仏典をめぐって、鳩摩羅什という人物が中国国境付近の天山山脈を越えてタクラマカン砂漠を通り、インドまで渡ったという話を聞いた。
以来私は、それが聖書であれ、仏典であれ、本物かどうかということを時々考えるようになった。訳が間違っていたら、誰がその責任をとるのだろうか、と。

山浦医師の話そんな私にとって、山浦医師の『ケセン語訳新約聖書』は、一つの衝撃的な出来事であった。ケセン語とは、今回大震災に見舞われた宮城県・気仙沼地方の方言である。山浦医師は多忙な医業のかたわら、ギリシヤ語原典の聖書に照らし、詳細かつ緻密に方言で訳されたのである。その業績は“言語学界”でも高く評価されるほどのものだという。
このケセン語訳の聖書の中で、私の注意を引いた二つの箇所がある。「ことばは神であった」と、「神の愛」というキリスト教の二つの核心的なことばである。
前者は、クリスチャンなら誰でもヨハネの福音書の書き出し、「初めに、ことばがあった。……ことばは神であった。……この方にいのちがあった」(ヨハネ1・1、4)を思い浮かべるであろう。実際、キリスト教は“ことば”の宗教と呼ばれてきた。しかし、本当にこの訳は正しいのだろうか。ギリシヤ語もヘブル語も全くわからない私に真偽のほどはわからないのだが、山浦医師の孤独な作業を支えたという老婦人の一言、「山浦さん、教会で聞く聖書はわからないが、あんたの聖書ならよくわかる」には、まったく同感である。山浦訳は次のようになっている。
「初めに在ったのァ神さまの思いだった。……その思いごそァ神さまそのもの。初めの初めに神さまの胸の内に在ったもの。神さまの思いが凝ってあらゆる物ァ生まれ、それ無しに生まれた物ァ一づもねァ」(ヨハネ一章)
私たちの現実でも、まず思いがあってことばが生まれ、行いが生じ、一日の働きが動きだすのではないだろうか。
たとえば、暑きにつけ寒きにつけ、親は遠く故郷を離れたわが子の身を案じるがゆえに、荷物を送り、手紙を書くのではないだろうか。そして、天の父なる神は人間の悲惨さを思ったからこそ、御子イエス・キリストを地上に送られたのではないのだろうか。つまり、思い(想い)が何かを生み、何かを創造するのである。

神の愛ということ〝敵を愛せ〟というキリスト教の黄金律について、山浦医師は次のように言う。「キリスト教は愛の宗教だといわれています。……『愛する』とは、どういう意味でしょう。『日本国語大辞典』……によると、愛というのは相手を好きになることです。……これは自己本位的感情だとあります。自己本位的感情なので愛は上下関係につながります。上の者が下の者を愛するのです。……下の者が上の人に対していだく好意は『慕う』というのです。……これが日本語の愛の意味でありますが、明治の中ごろから変な現象がおきました。キリシタン禁教令が解けて、聖書の翻訳が始まってからのことです。聖書の中に出て来るギリシャ語の動詞アガパオーを『愛する』と訳しました。たぶん中国語の翻訳のまねです。これが大間違いでした。こともあろうに『神を愛する』としました。……アガパオーは『愛する』ではありません。実はすばらしい訳があるのです。四百二十年ほど前に日本のキリシタンは『ドチリイナ・キリシタン』という本の中でこれを『大切にする』と訳しました」(『イエスの言葉』文藝春秋、一一三~一一五頁)
キリスト者にとって大切なことは、キリスト教が借り物でなく、日本人の、そして自分自身のものになることであろう。それゆえ、私は同業の先達の労苦に深く感謝を申し上げると同時に、本書はキリスト者に新しい光を与えてくれる導きの書であると信じている。