クリスチャンは戦争をしてもよいか? 3 神が戦われる
藤原 淳賀
東京基督教大学専任講師
戦争はできるだけ避けるべきであることはいうまでもないが、どのような場合でも絶対に戦争をしてはならないのか? どうしても必要な場合もあるのではないか? キリスト者の中でまた神学者の間で、一致した見解はない。戦争に関して旧新約聖書はどう語っているのだろうか。旧約聖書と戦い人類の歴史は戦いと共にあり、イスラエルにおいてもそれは例外ではない。旧約聖書は殺人を禁じる一方で、少なからず神を戦いと結び付けて記述している。むしろ好戦的とさえとれる箇所もある。それらにより歴史上キリスト教における暴力行為が正当化されてきた。聖書のいう平和とは暴力を通して得られる秩序なのだろうか? そうであるなら前号で記したキリスト教リアリズムの立場に正当性を与えることになるであろう。しかし平和主義者のJ・H・ヨーダーはそれを否定する。私たちはしばしば、旧約聖書から現代に適応できる倫理的原則を見出そうとする。だがヨーダーは、イスラエルの民は聖書を読む際、「自分たちの物語、自分たちの過去の記録」として読み、戦争が神の御心であるということを中心的事柄とは考えていなかったと指摘する。アブラハムがイサクを捧げようとした記述やヨシュアの戦いから、今日の殺人の是非を引き出すことはできないという。むしろ旧約聖書の戦いの記述の中心は、ヤーウェが御自身の御手の力を持って神の民を敵から救われたところにあるという。 またP・C・クレイギは、旧約聖書において神のイメージが好戦的に描かれているのは言語的制約のゆえであり、これらの戦いの記述の中心点は、戦争の是非を問うことよりもむしろ神が人類の歴史に参与していることにあるという。これらは難解な問題で、より詳細な議論を必要とする。 しかし旧約聖書における典型的戦いが出エジプトであることに異論はないであろう。ヨーダーと共に、私は出エジプトを旧約時代の規範的戦いと理解している。ここにおける特徴は「主があなたがたのために戦われる」という理解である(出エジプト14・14)。 イスラエルの民の出エジプトは神の御心であり、この出来事には圧倒的な神の現臨とイニシアチブ(主導権)を見ることができる。そしてモーセが持っていたのは杖一本であった。イスラエル人は神による解放を経験した。彼ら自身はエジプト人を殺すことはなかった。軍事力にではなく、神に信頼することによってこの戦いに勝利した。 しかしイスラエルの民は「ほかのすべての国民のように」彼らを裁く王を求め、神を退けた(Iサムエル8・5)。神は彼らにサウルを与えられた。イスラエルの民が求め、神が許されたことのすべてが神の願っておられることではなかった。武器を取った戦争もそうであったのかもしれない。 新約聖書とイエス旧約聖書にはその独自性があり、必ずしもすべて新約聖書というレンズを通して読むべきではないという主張には妥当性がある。しかしながら、イエス・キリストの生き方と教えがキリスト者にとっての究極的な規範であり、我々の注目はここに注がれなければならない。イエスは、旧約聖書の中心は、神を愛することと隣人を愛することであると言われた。山上の垂訓においては敵を愛し、迫害するもののために祈れと言われた。私たちはその姿を主の生涯と十字架において見た。悪に対して善をもって戦った小羊の戦いであった。そこにある中心は、神がこの戦いを戦われるという確信である。父なる神の御心に主は死に至るまで従われた。そして父なる神が死者の中から主をよみがえらされたのである。 ある人はイエスが個人倫理を語っているのに対し、パウロは社会的責任を語るとして、そこに緊張関係を見る。しかしヨーダーはローマ人への手紙12章、13章の研究を通し、社会倫理としても善をもって悪に打ち勝つということがパウロの主張であると論証し、イエスの教えとの調和を見る。パウロにおいても、神が人類の悪に対して戦っておられるのであり、神の民は神の御心に従いつつその戦いに参与すべきであるという理解がその中心にある。それは悪に対して善をもって打ち勝つという戦いである。 聖書を貫くメッセージR・ニーバーがかつて「アイロニー」と呼んだように、我々が暴力を用い歴史を自分の思う方向に導こうとするとき別の方向に行ってしまうものなのである。聖書を貫いているメッセージは、時には暴力を用いてでも我々が世界を正しい方向に導かなければならないということではないように思える。むしろ、戦っておられるのは神であり、神の民は敵を愛することにより、屠られた小羊の戦いに参与せよというメッセージではないだろうか。 |