サバーイ・テ?(しあわせ?)
カンボジアで考えたこと 最終回 貧しい者に手を開いて
入江真美
Discipleship Training Centre在学中(シンガポール)
元国際飢餓対策機構海外駐在スタッフ
単立 シオンの群れ教会会員
カンボジア駐在中、よくされて答えに困った質問がありました。それは「日本にいた時とカンボジアにいる今、どっちの方が幸せ?」というものでした。「どっちって言われてもねえ……。種類が違うし」と内心思いつつニコニコしていると、決まって次の質問がやってきます。「カンボジアは問題だらけで、貧しいから、日本の方が幸せでしょう?」そんな時は、決まってこう答えます。「日本には家族や友達がいるから、時々会いたいと思うよ。でも、日本にも問題は沢山あるよ。幸せはどっちに居ても幸せ。だって、どこに居ても神様は一緒にいてくださるからね」
教会に集う人たち、田舎にむかうタクシーで乗り合わせた人たち、流しのバイクタクシーの運転手さんたち……と話しをすると、カンボジア人にとっての「幸せ」は多くの場合、物質的・経済的なものによるのだということがわかります。見た目の美しさ、豊かさ、持っているもの。その傾向は、首都プノンペンの方が、より顕著なようです。彼らが幸せになるための条件としてあげているもののほとんどをすでに手にしている日本人、しかし、必ずしも「幸せ」になれていないことを知っている日本人としては、彼らの質問にこう答えることで、何かを感じ取って欲しいと思うと同時に、自分自身も「幸せ」とはいったい何なのだろうか、と考えることがよくありました。
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(箴言17・1)という言葉が、収穫した米の一部を持ち寄って、特に貧しい家に分け与えているトロピアンルークの村人を見るときに、思い出されました。私は彼らに日本の支援者から託されたものを与えていると思っていましたが、私自身が、彼らを通して神様の業を見せていただき、実は多くのものを受けているのだと気付きました。
イスラエルの民が約束の地に入る前に、彼らが神の民としてふさわしく歩むために、神様が与えられた律法の中に以下があります。「貧しい者が『国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。』」(申命記15・11)。イエス様ご自身も「貧しい人々といつもいっしょにいる」(ヨハネ12・8)といわれているのは、私たちキリスト者にとってチャレンジだと思います。
私たちに今すぐ始められる小さなことがたくさんあります。私が最初に使用済み切手を集め始めたのは、幼稚園のときでした。使用済みテレフォンカードを送ってくださること。里親さんとして具体的に一人の子どもとその家族のために、祈り支えてくださること。さまざまなセミナーや講演会を通して、私たちが遣わされているこの世界でおこっていることを知ること。買い物をするとき食事をするときに、ちょっと立ち止まって、本当に必要なものが何かを考える習慣をつけることも、初めの一歩になるでしょう。
神様の召しに従って海外へ出て行く方、そしてその背後でいつも覚えて神様に祈ってくださる方たちの存在も、とても重要です。日本人の感覚では、たった五百円玉一枚と思われるかもしれませんが、その五百円の献げものは、カンボジアの農村地域の五人から七人家族が一週間十分な食事をし、健康に過ごすために役立つのだということも、覚えておいていただきたいと思います。
地球や人類が危機にあると知った学生時代、「世界を変えたい!」と真剣に思っていました。一人ひとりの小さな一歩が、いつか世界を変えてくれると信じていた時もありました。しかし、巨大な、構造的な悪の前には、私という個人はあまりにも無力である現実を思い、何をすることも空しいと感じた時期もありました。また、罪にがんじがらめになっている人間、肯定的な変化を畏れる人間の弱さを知れば知るほど、人道的な理想には限界と落とし穴があることを知るようになりました。
今カンボジアでの経験を通して、そのどちらの現実の前にも、希望の光は射しているのだと確信することができます。私たちは世界を変えることはできません。私たち人間の力だけでは。しかし、神様はこの小さくて不完全な私たち一人ひとりを用いて、変化をもたらそうと待っていてくださいます。キリスト者として「この世界を自らの力で救おうとする傲慢」、一方「何もしないで自分の魂の救いにのみ安住しようとする怠慢」そのどちらからも自由に歩ませていただきたいと切に願っています。
戦争や飢餓、紛争の絶えないこの世界に、平和の君として来てくださったイエス様に心から感謝しつつ……。