ディボーションって本当に必要? 良書さわりよみ『主の前に静まる』
片岡伸光
主の御名を呼ぶ
主の前に静まるといえば、「静思の時」、すなわち、聖書を読み、祈りをささげることを考える人が多いのではないかと思います。それは、主のみことばを学び、主の御思いを知り、私たちの願い事を主に聞いていただく時です。この「静思の時」が、私たちの生活の中に位置づけられ習慣化することは、すばらしいことです。しかし、習慣化はときに、聖書の活字を追うだけになったり、願い事を並べることに終始するといったふうに、形ばかりのものになる危険性があります。また、習慣化どころか、その時間をもつことができないと感じるほど多忙さに追い込まれていたり、思いが神に向いていなかったりします。「静思の時」のエッセンスが、主と交わることであり、日々の歩みの中に主をお迎えすることだ、ということを知っているのは大切です。それは一瞬のうちにでもできることです。あらためて静まる時をもてないような場合でも、祈りのことばが出てこないような時でも、その場で「主よ」と御名を呼ぶことができるのです。
マグダラのマリヤは、復活の主に「マリヤよ」と呼ばれ、「ラボニ(先生)」としか答えられませんでした(ヨハネ二〇・一六)。しかし、それは、短いけれど十分な祈りでした。それ以上語ることができなかったし、語らなくともよかったのです。
私自身、多くの人に関わり配慮しなければならない忙しい一日を過ごし、ことに、言わないでもいいことを言ってしまったとうちのめされているようなとき、入浴するときが主との交わりを回復するときであったことが何度かあります。祈ろうとしてもことばが出てきません。弁解もとりつくろいもなく、主にあやまる気力さえなく、ただ「主よ」と御名を呼び、ゆぶねの中でじっとしています。そうした後に、主に語ることができるようになっていくのでした。
「主よ」と御名を呼ぶことは、最短の祈りであり、主との交わりそのものです。
主よ。いつの間にか祈りが義務となり、重苦しいものになっている私でした。あなたが私と交わろうと待ってくださっていることを、いつもまっ先に思い起こすことができるようにしてください。