バック・トゥ・ベーシック・シリーズ(1) 聖書通読 みことば さらに甘く

聖書通読
下川 友也
東京基督神学校 校長

 『みことば 蜜よりも甘い』(いのちのことば社刊)の原稿を書き終えた一九九八年十二月三十一日から数えて今日二〇〇二年十一月五日でちょうど通読九十九回を加え、通算四百六十二回終了となりました。この四年間で、どれだけみことばは甘くなったのか、証しをする機会が与えられ幸いです。

 読むことよりも……
 聖書通読をいつも奨励しているせいか、講演先で「下川先生は聖書をよく読んでおられます」とよく紹介されます。正直言ってそれは、とても自ら恥じ入るときでもあります。なぜなら聖書はよく読むことも大切ですが、実行が何よりも求められるからです。そしてみことばの実践、愛の実践となるとなかなかに乏しい者ですから、かえって聖書読みの聖書知らずではないかと内心忸怩たるものがあります。ルターのあの言葉「神のことばの乞食、生涯へりくだった敬慕の心で、追い求める」ただそれだけで十分なのです。

 とはいえ、みことばのすごさは
 最近気づかされ、また励まされていることがあります。それは聖書の内的な力とでもいうべきものです。つまり、ただ読むだけのような私にも、読むごとに、恵みが豊かにあるということです。ちょうどみことばの説教と聖礼典とが適切にとり行われるところに、聖霊の働きが伴い、祝福があるように、聖書そのものの力はとても顕著です。そう思うとき、ただ読むだけでは何にもならないと、簡単に言い切ることはできません。聖書とともに働く聖霊が、読者に豊かさとさとしを与え、その実践へと駆り立ててくださるからです。

 数々の出会い
 とても素直に応答して、「さっそく通読に取り組み、二、三ヶ月で終了しました」という方、「今年はとにかくがんばって、半年で六回読みました」という方、各地で私のチャレンジに感動してくださる方々を見て、喜んでいます。しかし意外に多いのは、「毎月二回のペースで読むなどというのは本当ですか(信じられません)」という質問です。その厳しい問いかけへの返答として、冒頭に四年間で百回という数字を出しておきました。あなたもぜひ聖書通読に取り組んではいかがでしょう。

 ここで私の実践よりももっと驚嘆するような証しを紹介しましょう。

 豊橋福音聖書教会(日本同盟基督教団)の水上勲牧師をお訪ねしたとき、会堂の壁に手書きの創世記(最初の箇所)のみことばが額に入れてありました。今はもう亡くなられたあるクリスチャンが筆写したもので、聖書全巻を巻物のようにして書き上げてあるとのこと。せめて壁にかけられてあるものだけでも写真に撮って……とお願いすると、イザヤ書と詩篇の実物を送ってくださいました。行く先々で証しに用いてくださいとのことでした。一つは学園に、もう一つは証しとして用いています。

 手書きの聖書をてがける
 また今年の六月、ある結婚式の説教を依頼され、横浜の清水ヶ丘教会(日本基督教団)の講壇に上がって、とても驚いたことがありました。講壇用聖書の装丁で、手書きの新共同訳聖書が置かれていたのです。さらに驚いたことに、その後ろのページには、筆者が八十二歳の方であり、それが九冊目の聖書であるということ、しかも一冊目は七十歳を過ぎてから書き始められたということが記されていました。

 読むことの苦労を訴える人がいますが、書くことに比べたら、どれだけのことがあるでしょう。これほどの筆写の大先輩の前では、多少の通読の実践などまるでとるに足りないことに思えます(もちろん、我慢比べではないのですが。)

 およそ八ヶ月で書き上げられたという、その手書きの聖書を読みながら、古代の写本の努力、そして信仰の先輩たちの信仰の遺産を改めて感謝するひとときとなりました。

 民数記七章とか、出エジプト記二五章とか
 通読の途中で、ほとんどの読者が直面するのが、祭儀規定とか神殿の大きさなどの記事でしょう。「いちいち読むべきなのですか」と言われる方がいます。私は単なるこだわりからではありませんが「それらも丁寧に読んでいます」と答えます。筆写する苦労を思えば、またさらに犠牲の動物を準備して、実際に備えた聖書時代の苦労のことを考えればと思うからです。

 たしかにときとして時代や空間を隔てると、意味のわからないことは、聖書に限らずたくさんあるでしょう。しかしまずは文字通り、その経験を追いかけるなかで、深く深く教えられていくのが聖書の不思議です。聖書に関する限り、私たちクリスチャンはもっと、もっと書かれていることにこだわってよいのではないでしょうか。

 「みことば 蜜よりも甘い」、少なくとも今もそう言うことができます。いよいよ加重的に、みことばに集中させられていること自体が、私には「甘い」としか言いようがないのです。