バック・トゥ・ベーシック・シリーズ(2) 礼拝 「聖なる日常」としての礼拝
朝岡 勝
日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会 牧師
1.意識的に、集中的に
「意識的に、そして集中的に」。これはかつて神学校時代のあるクラスで主日礼拝の意義について語られた一人の恩師の言葉です。キリスト者の生活はその全体が神の栄光へと方向付けられた礼拝の生活であるが、あえて日曜日、主日の公同礼拝に集うのはなぜか、という問いに対する答えでした。
日毎に礼拝者として生かされている私たちの心を、特別に定められた「時」と「場」に集め、心を傾けて礼拝する。私自身にとって主日礼拝の意義が腹の中にしっかりと収まった瞬間でした。
あれから十数年。牧師として、教会の兄弟姉妹が日々直面している「忙しさ」という現代社会が抱える深刻な問題に触れる中で、改めてこの言葉の意味を噛みしめています。毎日帰宅は深夜になり、休日も関係なく、週日の集会はもとより、日曜の礼拝を守るにも多くの支障をきたすという現実が目の前にあるのです。
読者の中にも、「日曜日のこの時間をあのこと、このことのために使えたら」という葛藤は繰り返されてあるのだろうと思います。しかしだからこそ必要なことは「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(詩篇四六・一〇)との御声をもって私たちの人生に介入し、その歩みを中断させられる神の御前に、心定めて静まることなのではないでしょうか。地上のことで心が支配されてしまわないように神の国へと視野を広げさせ、現在のことで思いが一杯になってしまわないように終わりの時へと視点を向けさせてくださる。ここに主日の祝福があると信じるのです。
そのためにはまず御言葉の奉仕者である牧師こそが、祈りと御言葉の万全の備えをもって主日礼拝に「意識的に、そして集中的に」奉仕し、いのちのことばをもって語りかけ、会衆を祝福のうちに派遣しなければなりません。御言葉の奉仕者として召された自らに向ける戒めの言葉です。
2.いつもの通い慣れた道を
このような現実の中にありながらも、主日の朝を迎えると、礼拝者たちがいつもと同じように礼拝の場に臨んでいる姿を見ることは、説教者にとって驚くべき恵みです。この場に集うために一人一人がどのような戦いをくぐり抜けて来たのかを思い巡らすだけでも、説教者は心燃えるものを感じますが、むしろ兄弟姉妹たちは淡々と、黙々と、落ち着いて礼拝の営みを続けているのです。
これもまた神学生時代の貴重な思い出ですが、当時通っていた奉仕教会での礼拝で、献金感謝の祈祷の折りにしばしば出てくるフレーズがありました。
「今朝もいつもの通い慣れた道を教会に集い、愛する兄弟姉妹たちといつもの席を暖めています……」。
恐らく兄弟姉妹の中には仕事に何とか折り合いをつけて、家族の中で懸命な証しの生活を続けながら、時には大事なものを犠牲にして、ようやくのことで勝ち取った日曜日があるでしょう。それでもそのような思いをおくびにも出さず、すべての思いを心に収めてささげられるこの祈りを思い起こすたびに、主日の歩み、礼拝の歩みが「日常の営み」となっていることの驚くべき恵みを深く覚えさせられるのです。
3.聖なる日常として
私たちが聖霊により御子イエス・キリストにあって父なる神を礼拝する時、ここに御言葉と聖礼典をもって主イエス・キリストの臨在は鮮やかに示され、私たちは聖霊によって、教会のかしらにして天地万物の主なるイエス・キリストに結び合わされます。その時に私たちは、このお方の御前において、人としての真にあるべき姿に回復させられるのです。
このように、主日の礼拝は、やがて来たりたもう再臨の主とともに終わりの時に実現する神の国に迎えられ、朽ちることのない者とされた私たちが主とともに祝う祝宴の先取りであり、前味です。そうであるからこそ、この終末への希望に貫かれた主日の礼拝はかけがえのない「特別な日」でありながら、しかし私たちの仕事や家庭や学舎での「日常」の日々から切り離された「特別な日」ではなく、むしろ私たちの仕事や家庭や学舎での日々が真の意味での「日常」となり、その日を生きる私たちが真の人間となっていくための「聖なる日常」として、ますますその輝きを増していくに違いありません。
一年五十二回の主日礼拝の歩みが、創造から終末に貫かれた神の支配される歴史の中に位置づけられてあることを知るならば、それは一回一回の礼拝が主なる神の御前に価値ある、かけがえのない献げ物であることを改めて教えられます。だからこそ生かされてある今日、この時、私たちの人生で献げうる最高の礼拝をもって主にお仕えしたいと願うのです。
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル一〇・二五)