ビデオ 試写室◆ ビデオ評 57 『ナザレのイエス』第二巻
古川第一郎
日本キリスト改革派 南越谷コイノニア教会牧師
弟子の視点で描いたイエス像
この第二巻は、ペテロ(ジェームス・ファレンティーノ)とイエスの出会いから、ラザロの復活までが収録されています。20年前に見て感動したシーンを、あらためて見て、その脚本の素晴らしさに唸りました。
故遠藤周作氏が、母親から教えられたキリスト教が、あるとき急にわかり始めた瞬間があったそうです。それは、福音書をイエス中心ではなく、イエスと出会った人たちを中心に読んでみたときでした。その人たちの人生が自分と重なり、そこにイエスという方が入ってきたことの意味を知り、彼自身も主イエスと出会っていったそうです。
そんな一人がペテロでした。「働いても働いても、半分は税金で持って行かれる。でも、家族を養わなければならない。つらいなあ」という、生活の苦労のつぶやき。そんな彼の人生に、イエスが入って来られます。彼は弟子になります。彼の家にいつも税金を取り立てに来るのが、マタイという取税人でした。ところがイエスは、そのマタイも弟子にされたのです。大嫌いなマタイと仲間になる。それだけでなく、イエスはマタイの家に食事に行くというのです!「なんであんなやつを!!」ペテロは一緒に行くのを拒否します。
でも気になって、マタイの家を戸口からのぞいています。それに気づいたイエスは、そこにいる皆に向かって―実はペテロに向かって―あの「放蕩息子」のたとえを語り始めます。罪を重ね、ボロボロになって帰ってきた息子を、父は喜んで迎えました。長男は怒りました。「なんであんなやつを!」父は言いました。「お前の気持ちはわかるよ。でも、彼が心を入れ替えて帰ってきたことは、すばらしいことだよ。死んでいたのに生き返ったのと同じだよ!」イエスは、じっとペテロを見つめます。ペテロの目から涙がこぼれます。放蕩息子の話はペテロがマタイと握手をするための、一期一会のメッセージでした。
後半ではマグダラのマリヤ(アン・バンクロフト)など、たくさんの人生のドラマが次々に描かれ、全体としてイエスの生涯となるのです。
最初はイスカリオテのユダを演じるはずだったロバート・パウエルが、イエス役になったというのも、不思議なことです。ある人が、「このイエス様なら、私の悲痛さや寂しさをわかってくれると感じた」と言いました。清らかな中にも、人の悲しみを共に背負う方の表情が伺える、共感者としてのイエス様が、強く感じられます。