ブック・レビュー 「信仰告白の事態」として


小暮修也
明治学院 学院長

アジア・太平洋戦争後、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し」た日本国憲法の解釈改憲・明文改憲が為政者たちによって進められています。現政権は、集団的自衛権によって戦争のできる国になろうとし、武器輸出禁止三原則の変更によって「死の商人」の仲間入りを目指しています。確かに、兵器輸出大国の米、露、仏、英は国連安保理の常任理事国でもあり、「マッチポンプ」の役割を果たしています。戦争は利益に結びつくからです。また、首相の靖国参拝は過去の戦争だけでなく、新たな戦死者を「英霊」として称え、戦争をしやすくするための行為でもあります。
このような憲法改悪の出来事を「信仰告白の事態」としてとらえ、編まれたのが本書です。「信仰告白の事態」とは何でしょうか。「一九三三年にヒトラーが政権を取ったとき、危機感を募らせたドイツの少数者クリスチャンらは、これを『信仰告白の事態』と受け止め抵抗運動を始めました。それが、歴史に残るドイツ告白教会の信仰の闘いです」(五頁)と紹介されていますが、「信仰告白の事態」はキリスト者として曖昧な姿勢が許されないことを意味しています。現在がなぜ「信仰告白の事態」なのでしょうか。それは「東日本大震災の被害者が置き去りにされ、原発は稼動し続け、放射能汚染水が垂れ流され、沖縄の基地は一向になくならず、近隣諸国との関係は緊張を増し、大人たちは嘘ばかりつき、高齢者や子ども虐待は激増し、生活保護受給者が追いつめられています」(八三頁)とあるとおりです。これに加えて、在日外国人へのヘイトスピーチにみられる人権侵害、野宿生活を強いられている人びとの生存権が奪われている事態に対して、クリスチャンは傍観していてよいのか、愛をもって「小さき者たちの命を守るために、目を覚まし、声をあげるべき」(五〇頁)という指摘が心に響きます。
神によって解放された民が再び奴隷状態になることを免れたように、私たちも「信仰告白の事態」として腰をすえて取り組むことが求められています。