渡辺 信夫
日本キリスト教会 東京告白教会牧師
沈黙を経て語られる戦争の記憶
私は戦争について、戦後すぐ語り始めた。それは戦争中、おかしいおかしいと感じながら勇気がなくて黙ってしまったことを、信仰者にあるまじき行為だと悟ったからである。もっと単純に言うならば、戦争に反対しなかったことが罪であったと認めずにおられなかったからである。そのように私が発言できたのは、私の経験が戦争反対という結論にならざるを得ない単純・明快なものだったからであろう。対照的な例をあげれば、従軍慰安婦にされた女性たちは、事実について沈黙せざるを得ない社会の圧力のもとにいた。それでも彼女たちは五十年後に勇気をふるって事実を語り始めた。私には沈黙しなければならない重苦しい事情はなく、軽々と戦争の痛みと悲しみを語った。しかし、人に漏らしえない経験を心に秘めている人もいることは感じていた。長い時を経て始まった戦争経験の発言は、私のような単純な経験の者にない重いものを引きずっており、それだけに説得力も大きい。遅く語り始めるほうが良いということではないが、遅くなってから語り始めた人々の証言に教えられることが多いのを知っている。早くから語り始めたことにはそれなりの意義がある。しかし、口にしにくい経験をしたために語り始めが遅れたことが、タイミングを失した証言であるとは思わない。遅れて語り始められた言葉には遅れた間に堆積されていた深みがある。今般、いのちのことば社から出版された『いま、平和への願い』を読んで、時を経てから語られた証言の深みに触れる思いがした。戦争経験を語ることが時代とともに色褪せていくのではないかと思われたこともあった。だが、そうでないという確認を私は年々深めて来たのではないか。つまり、戦争経験は風化できない種類の悲しみなのだ。その悲しみに向かい合うことが信仰者の課題だということを今回新しく指摘された。