ブック・レビュー 『この国に思想・良心・信教の自由はあるのですか』

『この国に思想・良心・信教の自由はあるのですか』
岡田 明
日本福音教会連合 主都福音百合ヶ丘教会会員
都立高校勤務

信教の自由が侵害されようとしている。思考停止はもはや「罪」の段階に

 いつの世も人権抑圧の現場はどこかにあるのだが、自分がその渦中に追い込まれたり、目を開かせてくれるだれかとの出会いがないかぎり、多くの人は無関心であり、鈍いものである。抑圧され、差別されている者は沈黙してしまうことが多いからだ。

 今、信教の自由が侵害されようとしている。私の勤める都立学校では、信教の自由のみならず、人権を核とする民主主義的なものすべてがなぎ倒されそうな事態に陥っている。私はこの中でどのように抵抗していくべきか、オロオロと模索している。

 本書はうつむき気味であった私の顔を少し上へと向けさせてくれた。時代への考察、アジアとの連帯の可能性、抵抗の歴史、今まさに抵抗の現場からあげられる声……本書を通して得たものは多い。書名を見て、「難しそうな本だな。興味ない」と感じた人にこそ、ぜひ読んでほしい。衝撃を受けてほしい。有事関連三法、国民保護法などが制定され、信教の自由の外堀は埋められた。憲法「改正」も照準に入り、だれひとりとして傍観者ではいられない状況がすでに成立している。思考停止はもはや「罪」の段階にきていると思う。

 この書は、座談会の部と五人の寄稿からなる。座談会は参加メンバーがすごい。市民運動や人権闘争の現場で思索してきた蒼々たる蕫知識人﨟がそろった。

 座談会は、高橋哲哉氏が口火を切る。戦後日本社会は戦前的な体制が温存された。日本の地金は変わっていない。民主主義はメッキだった。今、戦前的勢力がすごい勢いで復権し、メッキをはがそうとしている。体制であるはずの憲法が反体制的なものとして「改正」の対象とされている……。ちなみに高橋氏は参加者の中で唯一キリスト者ではない。

 これに対してキリスト者側からも、教会においても戦前の体質が変革されなかった、戦中の指導者が戦後もその地位にしばらく留まっていた、日本基督教団の戦責告白も議長声明という形であり、日本の教会の一つ一つの告白とならなかった、また、第一戒(偶像礼拝禁止)の重さを今も日本の教会は受け取っていないのでは、と意見が出される。

 高橋氏は日本の地金とは突き詰めていくと天皇制である。自由と人権を考えて民主主義に入っていくとき日本の場合はこれを避けて通れない、と問題の核心へと迫る……。

 このあと五つの寄稿がある。飯島信氏の「韓国民主化の道程と私」は氏の体験談だが、一九七〇年代の韓国民主化闘争の中で出会った青年たちの姿をまるで小説のような文体で活写している。

 辻子実氏の「信教の自由・政教分離・反戦―平和獲得への道」は靖国神社問題を現時点で整理するのに大変役立つ。

 池田幹子氏の「もの言えるくちびると心を託せる手を」は、卒業式で語ったごくふつうのひと言が問題化され、処分に至るという都立高校の常軌を逸した言論統制に対し、「声」をあげていくことを決意した教師の歩み。教師としての良心を隠すか、それとも苦難を覚悟で忠実に生きるかが今、教師に問われている。

 根田祥一氏の「日本は今どこにいるのか――教会が問われていること」は分析の鋭さ、主張の明快さにしびれる。信仰を「内心」の問題として、「外部的行為」と切り離すところに罪の源泉があると指摘し、天皇制という偶像との対峙が課題の本性だと突きつける。国の政策も問題だが、問われているのは私たち自身でもある。

 ビセンテ・M・ボネット氏の「良心の自由と不服従行為」は、自身の指紋押捺強制拒否の体験や人権史から不服従行為の正当性と抵抗権とはどのようなものかを説明する。

 個人的なことを言えば、著者の数名とは国旗・国歌強制の抵抗運動で知遇を得た。抵抗が主にあって真実のものであれば、必ず同志や支援者が現れ、人と人がつながっていく。この本を通し、さらにネットワークが広がることを期待したい。