ブック・レビュー 『キリストの恵みに憩う』
ヨハネの福音書のメッセージから

『キリストの恵みに憩う』ヨハネの福音書のメッセージから
工藤 弘雄
関西聖書神学校校長 香登教会牧師

主イエスご自身を見つめると、そこに安息が見えてくる

 今日の牧会や伝道において、福音的、聖書的であることが問われ続けています。しかし、しばしば、そのご本体であられる主ご自身を見つめることを、おろそかにしてはいないでしょうか。

 かつて、小島伊助先生が、「聖書が神のことばであると信じることは、聖書をとおして語りたもう神を信じることである」と語られました。まさに本書においても、著者は、聖書をとおして、主イエスがお語りになっていることを聴く、という視座から聖書を説き明かされました。

 主イエスご自身を見つめつつ、ヨハネの福音書の数か所から、信仰者の聴くべき語りかけが読む者に迫ります。文中の聖書箇所は行間がとられて独立し、各章は主の語りかけに応答する祈りをもって締め括られるなど、読み進むうちに読者は思わず臨在の主との親しい交わりに引き込まれるのです。

 「キリストの恵みに憩う」という豊かな結実に至るために、読む者には鋭く厳かなみことばによる「刈り込み」が求められます。たとえば、六章一五節以降で、人々が主イエスをむりやりに王としようとしたくだりからは、次のように鋭く問いかけます。主イエスを「自分たちの主権者として崇めるようにしながら、結局は、自分のほうが王座を占めていて、主イエスを自分たちの利益のために利用しようとしている」。

 私たちが自分を王とする間は、不安は絶えません。しかし、さらに読み進むと、闇と嵐の中で語られた「わたしだ。恐れることはない」との御声に応答し、主権を主イエスへ譲渡した結果、神は大安息へと私たちを導き入れるのだと、「恵みに憩う」極意を示してくれるのです。

 まことのぶどうの木であり、まことの羊飼いであられる主イエスは、本書の中にひとり立たれます。本書を読む者で、この主と出会わず、豊かな結合と養いとにあずからないまま、最後の頁を閉じる者はひとりもいないでしょう。