ブック・レビュー 『人生を支え、導くもの』
藤木 正三
日本基督教団 隠退牧師
信仰の“生の相”を求めて
著者は、本誌の読者にはご紹介の必要はないが、キリスト教信仰が本来持つ人を生かす力の回復を願って、特化した活躍をされている著名な精神科医師である。筆者は三十年近く御交誼を頂いているが、何故そこまで特化されるのかわからないところがあった。本書はその疑問に答えるものであった。かつてうかがった著者ご自身の述懐によれば、医学生のころ病理死体を見て人間は死ぬのだと実感、どう生きるかを巡って真剣に悩み、キリスト教を求道、伝統ある教会に出席したが、その説かれるところの観念性に満たされず、ペンテコステ系の教会に替わり、そこで受洗。しかし、牧師のエゴに信仰による人間疎外を経験されたそうである。つまり筆者の理解では、著者は前者において信仰の観《念》化による抽象化、後者において信仰の信《念》化によるエゴ化を経験したと思われる。そして《念》とは、心に留めて思う意であるから、信仰の観念化にも信念化にも、信仰が生活に生きて働いていない死の相があるということである。著者はその著『ほんとうの生き方を求めて』で、「もともと私はキリストを信じた時、キリスト者であることを土台にして職業生活をそれに調和させたいという気持ちを強く持っていた」(四十頁)と言っておられる。生活に即して、その具体相に真実として生きて働かない信仰は、著者にとってその名に値しないのだ、どんなに正しくても、固くてもそうなのである。にもかかわらず、現実の一人一人の生活の現場と突き合わすことのないままに、正しければ、固ければそれで良しとするような、内なる命を偽った安易さが、《念》としてキリスト教会にあることへの「怒り」(あとがき一一二頁)、それが著者を動かして、その動きを特化せしめるのであろう。
本書もその怒りの書である。《念》となったキリスト教から人々を助け出したいという著者の「良心の思い」(一〇八頁)に、読者はキリスト教本来の生の相を見るに違いない。