ブック・レビュー 『憲法九条を沖縄・アジアから見つめる』

『憲法九条を沖縄・アジアから見つめる』
朝岡勝
日本同盟基督教団・徳丸町キリスト教会牧師

平和を語る日本のクリスチャンがぜひ知っておきたいこと

 去る五月、福田内閣は戦後まもなく当時の文部省が出した国公立学校の靖国神社・護国神社訪問禁止の通達が失効し、歴史や文化を学ぶ授業の一環として生徒に靖国神社を訪問させることをよしとする政府答弁書を決定した。愛国心条項が加えられた新教育基本法の目論見が徐々にその姿を現してきている。時宜を得た本書の出版の意義を覚えたい。

 冒頭の座談会では憲法九条を取り巻く現状とキリスト者の平和作りの使命について語られるが、読み進める中で幾度も心に響くのは饒平名牧師の言葉の重みである。「日本国憲法の平和主義、特に第九条」は「沖縄を基地とする米軍のプレゼンスあって可能となったもの」であり、「護憲運動が盛んになればなるほど逆に、沖縄の基地は強化され、固定化されるという矛盾をはらんできた」「日本国憲法の平和主義は、六十二年間の軍事植民地としての沖縄の犠牲と呻きを担保として維持されてきた」といわれる時(三九頁)、平和を語る私たちの言葉のリアリティが鋭く問われている。

 戦う憲法学者として知られる渡辺教授の論考は、憲法九条の意義を東アジア共同体の構築という具体的なプログラムとともに論じる点で示唆に富んでいる。東アジア諸国の非核化と包括的軍縮の推進、共同経済圏の構築、歴史問題の解決という三つの課題は、私たちキリスト者市民の具体的な祈りの課題としての意味を持つものであろう。

 評者が興味深く読んだのはカトリック司祭でもある光延教授の論考である。「信教の自由と政教分離に関する司教団メッセージ」(二〇〇七年)に沿って、戦時下の神社参拝を「社会的儀礼」とした過去への悔い改めに立ち、積極的に信教の自由を主張していこうとするカトリック教会の現状を知ることができた。しかしその一方で、靖国と深く結びつく祖先崇拝儀礼に対して、例えば『祖先と死者についてのカトリック信者の手引き』(一九八四年)に見られる許容的な立場はどのように説明づけられるのかという問いが残る。日常における偶像礼拝問題との戦いなくして、この国で主を証しする戦いの勝利は展望しえないからである。