ブック・レビュー 『祈り』
どんな意味があるのか

『祈り』どんな意味があるのか
工藤信夫
平安女学院大学教授

古今東西の信仰者の資料をもとに本来の祈りとは何かを探索する

 “祈りはキリスト者の呼吸”と呼ばれるが、本書は祈りに関するきわめてすぐれた探求また検証の書である。私はこれまで幾多の祈りに関する本を手にしたが、これほど実際的な迫力をもって、祈りに関する素朴な問いに光を与えてくれたものは他に類を見ない。

 五百頁に及ぶ本書を読みこなすことは、大変な労力を要するだろうが、多くのキリスト者に深い知見と励ましを与える書となることは間違いない。

 私はかつて「もし日本のキリスト教界に、ヤンシーのようなジャーナリスティックな視点で信仰者の諸問題を解明してくれるキリスト者が何人か輩出されていたなら、日本人の信仰生活は飛躍的に深化していたにちがいない」と述べたことがあるが、今回はいっそうその感を深くした。それはおそらく、理論より、神学より、何よりも、祈りの現実と実践を重んじる著者の姿勢が、人間の心の現実をもとに、人生の事実を追求する臨床家の視点と共通するからであろう。

 たとえば本書には、次のような一見相容れないようなエピソードが書かれているが(三五九―三六〇頁)、こうしたことは、私たちの身近でもよくあり得ることではないだろうか。

 「二〇〇一年九月十一日に、世界貿易センターの二つのビルに別々に居合わせながら助かった、インド出身の夫婦の話を聞いた。奇跡的に、二つのビルが崩壊する前に階段を下りて外に出ることができた。夫婦は、深く感動してキリスト教に改宗し、夫はフルタイムの伝道師になった。信じがたいような話を聞いて、私は亡くなった三〇〇〇人を思わずにいられなかった。(これらの人々の)多くは、何トンもの溶解した鉄が一塊りになって降りかかる中でも祈っていたのである」つまり、一方で、聞かれる祈りがあり、他方で、全然そうでないようなのである。

 この点に関して、本書には次のような話がある。

 「ルター派の神学者マーティン・マーティーは言った。『二五〇人の海兵隊員が命を落とし……四人が生き残ったとき、生存者の家族がテレビで「私たちは心から祈りました。だから彼らは助かったのです」と言う。この類の祈りが最も不愉快だ。』」また、次のような実際的な話がある。ベトナム戦争で残った地雷で手足を失った人、難病を患う人々が癒しを売り物にするクルセードになけなしの金をはたいて集まった。しかし何の奇跡も起こらず怒った人々は暴徒化した。主催者はヘリコプターで救出され、本国に逃げ帰った(四二四頁)。

 このように考えると、私たちキリスト者が、その信仰生活の根底に据えている“祈り”には多くの吟味が必要であることがわかる。そしてヤンシーの魅力は、信仰者であればだれもが直面するこの“なぜ”に誠実な探究心をもって、ネパールから南アフリカ、ロシア、東欧を行きめぐり、アウグスティヌスからルター、ナウエンに至る古今東西の信仰者の膨大な資料と知見をもとに、キリスト者本来の祈りとは何かを探索するのである。

 二〇〇八年度の年頭、このような読みごたえのある本に出会えたことを幸いに思う。本書を世に送り出された出版社と訳出の労をとられた山下章子氏に深く感謝する次第である。