ブック・レビュー 『 賛美歌に見られる天皇制用語 』

『賛美歌に見られる天皇制用語』
野寺 博文
日本同盟基督教団 赤羽聖書教会牧師

日本の教会における深刻な問題「賛美歌」

著者は、明治初期には素朴に歌われていた賛美歌が、ナショナリズムの確立と昂揚という時代の影響を受けて、国家神道の用語をフル活用するよう変貌したことを実証する。そして、それが国威発揚と侵略戦争の推進に積極的に威力を発揮した罪責を告発し、さらには敗戦後も旧態依然として神道用語フル活用の賛美歌を歌って何とも思わぬ「知性」の暗さを糾弾する。
賛美歌「わが主のみまえに」を例に挙げると、紀元節のキーワード「大御世」は一八八一年版では存在しなかったのに、紀元節の定着する一九〇三年版には登場する。さらに、「わが主のおほ御世 いはいたてまつれ」は、十五年戦争の始まる一九三一年版では(三年前に制定された唱歌「明治節」の)「ことほぐ」を採用して「わが主のおほ御世 ことほぎまつれや」へと変貌する。同様に、「名│御名│大御名」、「業│御業│大御業」という風にわざわざ「大」を付けて国家神道の天皇用語を無節操に賛美歌へ適用させたという。
中でも私にとって印象的だったのは、「神│御神│大御神」の「おおみかみ」が戦時下では他でもない「天照大神」のみを意味したという指摘である。事実上、天照大神と習合された戦時下では、父なる神を「おおみかみ」と呼ぶことが宣教にプラスとなると当時の教会指導者は考えたのであろうが、敗戦後六十五年の現代でも「おおみかみ」と如何にも得意顔に賛美しているとするならば、牧師も信徒も未だバビロン捕囚の七十年の呪いの中にあると思わされて愕然とした。最近福音派で出した「新聖歌」にも「父、御子、御霊のおお御神に」(六三番)とあり深刻である。
戦時下を支配した巨大な暗黒の大魔王に今なお知性を暗くされたまま、日本の教会では未だに天照大神と習合した「神」を賛美することを推進していると言うべきか。「日の丸・君が代」問題の深刻さに無知な教職信徒の現実と重なって恐ろしい。
著者の指摘通り「ナショナリズムとの関連」で賛美歌の再考を迫られる。