ブック・レビュー キリスト教の本来性を探究する
福音派と呼ばれる人々に対する警鐘の書である。今日アメリカ社会では福音派の評判・信頼は下降の一途をたどっている。一九九六年の調査によれば八五%がキリスト教を好意的に見ていたのが、二〇〇九年には一六%に激減し、その中で福音派に良い印象を持っていたのはわずか三%であったという(一四頁)。その理由は、①キリスト者は恵みではなく罪意識を運ぶ人々として見られ、②人である前に伝道の対象と見なし、優越心、裁き心で人に接し、③人の話を心を込めて聞こうとはしない、④一方的に話すばかりで他者から学ぼうとしないからだという。かくして、「福音派の人々は……無教養、貪欲……狭量、排他主義者熱狂主義者……そして変人」呼ばわりされている(一七頁)。
聖書はイエスを表して「この方は恵みとまことに満ちておられた」と記しているのだが(ヨハネ1・14)、教会が「恵み」より「まこと」の研究に心血を注いだ結果、キリスト教は、信条、神学書、そして教義の細部をめぐって論争に明け暮れ、分裂する人々、つまり恵みではなく罪意識を運ぶ者として見られてしまっている(三六頁)。
またクリスチャンには信仰の〝旅人”〝活動家”そして〝芸術家”の三種類があるという話も興味深い。注目すべきは、イエスは優れた芸術家で、聞き手に分かりやすい話を用いて不朽の真理を教えたという。次のピーターソンの言葉に私はハッとさせられた。「説教や教えから学んだ言葉は焦点を絞った明確なもの……その言葉のほかならぬ強烈さによって、話しかけている相手への思いやりが損なわれがちだ。相手がもはや人ではなく、論争中の問題になってしまっている」(四二二頁)。
人の心に寄り添うことを長年の仕事としてきた臨床医の立場から言えば、人々が求めているのは解放であり、赦しであるのに、教条化された奇妙な言葉の羅列によって、本来、人を生かすはずの言葉が、人の精神を死に追いやっているのではないだろうか。ジャーナリズムの立場から真摯に、キリスト教の本来性を探究するフィリップ・ヤンシーの一連の著作は私たちを新しい福音の地平に導く。