ブック・レビュー 教会やキリスト者に課せられた責任


坂岡隆司
社会福祉法人ミッションからしだね 理事長

「一般の教会のほうが行き詰まっているように思います」冒頭の座談会の中でこんな発言が飛び出す。行き詰まり――それは、教会に限らず、現代社会に共通した時代の空気である。グローバル化した世界、スピードや効率を優先する社会の風潮。その流れの中で生じたコミュニティーや文化の崩壊。格差や差別。紛争。自然破壊。これらが得体の知れない霧のように時代を覆っている。今を生きる人々の閉塞感は、そのまま私たちキリスト者のそれであり、教会の「行き詰まり」であると言ってよい。
であればこそ、教会やキリスト者に課せられた責任は重い。ところが、はたして教会もキリスト者も、同時代の人々とともに「行き詰まり」、ともに「先にあるもの」を求めていくことをしているだろうか。礼拝と宣教が別の領域のものとされ、福音の本質についての吟味がおろそかにされてはいないだろうか。本書は、こうした問いを私たちに投げかける。
「教会が現実の問題と離れてしまうと……空回りに……」「地域で一番困っている人の現実が教会の現実になること」「奉仕はもともと神礼拝」「大きな誤解……クリスチャンが増えるために社会事業をやっているという理解」、「キリスト教の『不作為責任』」……等々、気になる言葉が次々に出てくる。
いずれも、「現場」からの問いかけである。福祉の現場から、ハンセン病裁判の現場から、あるいは「教会」という現場から。また、十九世紀のドイツで始まり、ヒトラーの時代を生き抜いた福祉の町「ベーテル」という歴史の現場からのメッセージも。これらがオムニバスのように本書を構成している。この「現場」から、ということの意味は深い。副題に、「ディアコニアの現場から」とある。奉仕、あるいは仕えることと訳されるこのディアコニアこそ、日常の場、世俗の場での礼拝なのだと教えられる。それは受肉された主イエスの姿でもある。
主イエスと共に「行き詰まる」教会には希望がある。時宜を得た一書である。