ブック・レビュー 日本の教会とキリスト者に進むべき方向性、希望と勇気を
髙木 寛
福音伝道教団 大間々キリスト教会牧師
本書において、著者は自らの人生を一九四五年八月十五日の敗戦を境に明解に二つ区分し、あらためて自分自身と日本の教会の戦争責任を問いかけます。
そこに見えてくるものは、戦前の日本の教会を支配していた「いいかげんさ」「誤魔化し」「妥協的体質」「時流へのおもねり」という体質が戦後の教会に無批判に引き継がれていること。「『国家のための死』と言われるものの真相を見破ることを遅らせたのは、『天皇』や『靖国神社』の欺瞞ではなく……『キリスト教信仰』」(五七頁)それ自体であったこと。それは「キリスト教信仰の名において、自分のしていることを肯定して、それを問い直さなかった」(五八頁)ことにあること。さらに、敗戦直後の荒廃と、昨年東北地方を襲った地震と津波による破壊を視野に入れながら、経験による知の純化(一〇七頁)がうまくいっていない現状を指摘し、「破壊と復興の繰り返しでないものが今、私たちに見えてこなければなりません」(一〇九頁)と、日本のキリスト者と教会に対して信仰的良心の目覚め(五八頁)を訴えています。だからといって、著者は決して自分を歴史の外に置いてはいません。自分で自分を「誤魔化し」ていたことを「たまらなく恥ずかしくなりました」(五二頁)、「戦争が終わった後、見るべきものをまだ見ていないと気づかせられること」(一〇五頁)が始まり、現在も思索と戦いを続けていると告白しています。
また、それだけでなく、読者は「未経験であることがかえって強みとなり、経験の故に世間ずれした知恵を尊ぶという判断の誤りが除去される」(一〇七頁)可能性に目を向けさせられ励まされることでしょう。
敗戦後六十六年の間、首尾一貫して平和と福音と教会のために、静かではありますが激しく問い続ける一人のキリスト者、牧師としての姿に、深い感動を覚えると同時に、神の言葉に良心を捕られた人の責任ある生き方とは如何にあるべきか、これからの日本の教会とキリスト者のあるべき姿と進むべき方向性が示され、希望と勇気が与えられる一冊です。