ミルトスの木かげで 第10回 「安全な人」と「安全ではない人」

中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。

長女が大学に入学して半年あまり経ったころ、こんなことを分かち合ってくれた。別の大学に進学した友人から、電話やメールやスカイプがしょっちゅう入って、「友達ができない、寂しい」と訴えてくるのだそうだ。
最初は、新しい環境になれば寂しいときがあるのも当然だと思って励ましていた。その友人が自分を必要とするときには話を聴き、求められればアドバイスをし、できるだけいつも「そこにいて」あげようと努めてきた。しかし、入学して半年経っても、彼女の状況は変わらなかった。かかってくる電話やスカイプは時間帯を選ばず、一度話し始めると何時間も終わらない。いくら話を聴いてもきりがなく、アドバイスしたことも、何かと理由をつけて実行に移そうとはしない。こちらも宿題や用事があるし、毎晩何時間もつきあっていられないので、会話を終わらせようとすると、「冷たい。自分に新しい友達ができたら、もう私のことはどうでもよくなったのね」と責める。そのくせ、娘のほうから連絡しても、自分が忙しければ素っ気ない。そんなことがずっと続き、すっかり参ってしまったという。
残念なことだが、世の中には自己中心的な人がいる。つまり、未成熟な人だ。幼い子どもが自分の視点からでしか物事を見られないように、大人になっても、自分の願望や都合や利益を基準にしてしか、物事を考えられないのだ。そういう人と付き合っていると、最初はよくても、だんだんと「おや?」と思わされる場面に遭遇する。その人の人格的未熟さや身勝手さが、言動の端々からにじみ出てくるのだろう。
クリスチャンの臨床心理学者ヘンリー・クラウドとジョン・タウンゼントは、そういう人たちを「安全ではない人」と呼んだ。安全ではない人との間では、心を通わせ、互いの成長を促すような深い人格的関係を構築していくのは難しい。安全ではない人のそばにいると、たびたび利用されたり、傷つけられたり、その人の問題の尻拭いをさせられたりすることになる。
私たちの周りにも、安全ではない人は少なからずいるだろう。そういう人とは関係を断つべきだとか、赦さなくていいというのではない。難しい人間関係を通して、自分が成長させられることはよくあるものだ。
しかし、黙って許容し、容認し続けることがその人のためになるかといえば、そうとはいえないだろう。その人の言動が自分にどのような影響を与えているのか、誠意をもって伝え、許容できないことははっきり意思表示したい。つまり、境界線を引くのである。正直な気持ちで相手にぶつかるのは決して楽ではないが、内心不快に思いつつ、表面を取り繕って付き合い続けることが、真の友情であるとも思えない。
またこのとき、相手に問題があると決めつけるのでなく、自分の受け止め方や反応にも問題があるかもしれないと自己吟味することは大切だろう。それには、身近にいる「安全な人」に、客観的な意見を求めると良い。
では、「安全な人」とはどのような人だろうか。クラウドとタウンゼントは次のように定義する。
? 私たちと神の関係が、もっと深まるよう促してくれる。
? 私たちと他者の関係が、もっと深まるよう促してくれる。
? 神が意図されたような、本当の自分になるのを助けてくれる。
人が成長し、成熟していくためには、周囲に複数の「安全な人」がいることが重要だとクラウドらは言う。「安全な人」は、過ちや弱さのない完璧な人という意味ではない。むしろ、自らの弱さを知り、過ちを指摘されればそれに素直に耳を傾けることのできる人であり、神の恵みなしには生きていけないと自覚している人である。安全な人たちは、私たちもまた、他者に対して安全な人になることを助けてくれる。
自分を必要としている孤独な友人のために、良い隣人であろうと懸命に努力していた長女だったが、気がついたら自分のほうが潰れそうになっていた。そんな彼女に、境界線を引くことと、それに必要な力を得るために、「安全な人たち」からサポートを得ることを勧めた。幸い、聖書研究会の仲間たちが彼女にとって安全な人たちだったので、そこから祈りと励ましを得ることができた。
前述の友人とは、結局疎遠になったらしい。ついにその友人に新しい友達ができて娘を必要としなくなったからなのか、娘が境界線を引いたからなのかは分からない。私は、二人がさらに成長して、いつか互いの関係を回復できる日が来るよう祈っている。