ミルトスの木かげで 第12回 親心

中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。

二十一年前に長女が生まれて以来、父なる神の私たちに対する親心が、少しはわかるようになった。その後さらに三人の子どもが与えられ、一人ひとりに対する親心もさることながら、兄弟姉妹の相互関係を見て教えられる御父の親心にも、目が向くようになった。例えば長女と次女がまだ小学生のころ。二人にオレンジジュースを入れてあげたら、「私のコップのほうがたくさん入ってる!」「私のほうがもっと入ってる!」と、けんかをし始めたことがあった。なんとくだらないことで言い争うのか。そもそもジュースを入れてあげたのは母である私であり、二人のコップに注ぎ足すことも、コップを取り上げることも、私には簡単にできるのだ。
二人の様子を見ながら、キリスト者もしばしば似たような争いをするのだろうと反省させられた。神から与えられた賜物や機会でありながら、さも自分の力で得たかのように誇る……。それが増し加えられるのも、取り去られるのも、神さま次第なのに。
また、神がなぜ「互いに愛し合いなさい」と口を酸っぱくして(?)言われるのかも、四人の子どもを育てる中で、よくわかるようになった。子どもたちが自分の正しさを主張しながら、互いに意地悪を言ったり、裁き合ったりしているのを見ることほど親の心を悲しませるものはない。妹弟を辛辣に批判した後で、「私のほうが正しいでしょ?」と得意そうに言われても、親はちっともうれしくないのだ。
親には問題のある子を取り扱う力がある。兄弟同士では、間違いを非難し合うのではなく、かばい合い、助け合ってほしい。あるいは、失敗した子が親の助けを請えるように、励ましてあげてほしい。親はそのほうがずっとうれしい。

*    *    *

時は流れ、長女と次女が高校生のころ、こんなことがあった。ある冬の日、二人が登校したあとで長女エミから電話が入り、「ものすごく大きなお願いがある」と言ってきたのだ。どうしたのかと思ったら、その日、次女はスペイン語の大事なテストがあるのに、テストに必要なノートを持ってくるのを忘れてしまったので、届けてくれないかと言う。
「みん(次女)は携帯も持ってくるのを忘れたから、私が代わりに電話しているの」私は普段、子どもたちが忘れ物をしても、滅多なことでは学校に届けないことにしている。忘れるたびに私が届けていたら、いつまでたっても本人が責任をもって気をつけるようにならない。一時期、届け物が連発したことがあり、そのときに私ははっきりそう言ったのだ。
エミはそれを覚えていたので、私に頼むときも、当然持ってきてね、という調子ではなく、「お母さんに面倒をかけさせることになって申し訳ないけれど、持ってきてあげてくれませんか」というように、とても姿勢が低かった。
私は、妹のために頭を下げるエミの姿に感動した。だれかに代わって、自分が身を低くして懇願する……「とりなし」とは、こういうことなのだと思わされた。
しかも、三限目と四限目の間の休み時間に校舎の外に出て待っているから、その時間に持ってきてほしいという。その後、自分がそれをみんに届けるから、と。みんの時間割によると、教室が駐車場から遠い場所なので外に出る暇がないけれど、エミはちょうどその時間は駐車場の近くの教室にいるから、そうすることに問題はないらしい。
それにしたって、自分の休み時間を犠牲にして、寒い中を風に吹かれて外で待つというのは決して楽なことではないだろう。だれかのためにとりなすとは、自分の側にも何らかの犠牲が生じる覚悟をすることも含まれるのかもしれない。私はこの姿にとても心を動かされ、快く忘れ物を届けた。たかが人間の親に過ぎない私がこのように心を動かされるならば、天の御父は、私たちが兄弟姉妹のために神の御前に身を低くして、自分が払う犠牲をも覚悟しつつとりなすとき、その憐れみに満ちたお心をどれだけ動かされるだろうか。
エミが電話をしてきたとき、もし「みんったらホントにどうしようもないよね、また忘れ物しちゃってさー。もっと気をつけてもらわなくちゃ困るよね。悪いけど、持ってきてあげてくれる?」みたいな言い方をしていたらどうだろう。「みんに自分で連絡させなさい」と言って終わりだったかもしれない。自分も一緒になって批判する側に立っていたら、とりなすことにはならないのだ。
ああ、御父は日々、どんな思いで私たちのことをご覧になっているのだろう。子どもたちを通して教えられることは、尽きることがない……。