ミルトスの木かげで 第16回 「恐れ」を恐れない
中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。
先日、テレビでファミリードラマ「フルハウス」の再放送を偶然見た。妻を若くして事故で亡くした男性が、男友達の助けを借りながら三人の娘たちを育てるという物語だ。今回見たのは、高校生になった長女が、以前のように何でも相談してくれなくなったことで父親が寂しがり、「娘が、ぼくたちの関係が、変わってしまった!」とパニックになって娘に疎まれるというもの。しかし最後には、「私が変わったのは、成長しているということなのよ。心配しないで」と言われて仲直りする。
ドラマを見ながら、「もうティーンなんだから、ほっといてあげなさいよ、お父さん!」とニヤニヤしながら突っ込みを入れていたが、実は、彼の気持ちは非常によく分かる。
わが家も、高校卒業をめどに親離れ・子離れを完了させるつもりで子育てしてきたが、いざとなると、やはり親のほうが後ろ髪を引かれている。うちは特に、次女が高校時代、誌面には書ききれないいろいろなことがあって、二度の入院を体験し、現在も治療中であるため、親許を離れさせるのに不安があった。
携帯電話のメッセージや「フェイスブック」など、この時代ならではのツールでわりと頻繁に連絡をくれるものの、どうしても彼女の動向が気になる。苦しんでいるらしい様子が伝わってくると、私のほうがいても立ってもいられなくなる。新しい土地で本人なりに努力しているものの、うまくいかなくてつらいときもあるようだ。親として助けてあげたい気持ちでいっぱいなのだが、本人はもはや親に頼ろうとはしない。ヘルプやサポートは、むしろ友達やほかの大人に求めている。問題を抱えつつも、これからの道のりを自分の手で切り拓き、自分の足で歩こうとしている。
それは良いことだし、そうあるべきなのは重々承知しているが、いかんせん歯がゆい。彼女の慰めのもとになってあげたい、救い出してあげたい、私のリソースの全てを差し出してあげたい、そんな思いに囚われて、これは私のほうが不健全じゃないか? という状態に陥ることもあった。
* * *
私のスピリチュアル・ディレクターである牧師と、この件について話すと、「親として子どもの心配をするのは当然だけれど、霊的形成の観点から言うなら、心配しているときに自分の中で何が起こっているのか、神様はそれをどう取り扱おうとされているのか、そこに注意を払うといい」と言われた。
そう言われて内省してみると、娘の状態の良し悪しによって、激しく振り回されている私がはっきりと見えた。そこで、この不健全な執着から解放してくださいと祈っていたら、その矢先に、「離れていることも霊的修練のうち」という言葉をネット上で目にした。
子離れが必要なのは分かっていたが、それも「霊的修練のうち」という視点が新鮮だった。修練であるなら、くり返し練習しながら習得していくものだから、一発で手放せなくてもがっかりする必要はない。習得できるまで何度でもトライすればいい。そうやって習得されたものは、私の人格の一部になる。
さらに、つい先日、ナンシー・オートバーグ の「恵みと恐れ」というメッセージを聴いた。そこでは、「私たちの恐れを神の恵みのうちに明け渡すなら、もはや『恐れ』を恐れることはなく、恵みに支えられつつ、そのただ中を歩むことにより、恐れから自由になれる」と語られていた。
私も娘のために熱心にとりなしていたつもりでも、実はその背後にいくつかの恐れがあったことに気づかされた。とりなしの祈りの中に逃げ込んで、恐れから目を逸らしていたとはなんという皮肉だろう。その恐れがどこから来ているのか、正面から見つめ、取り扱うよう招かれているのを感じた。
恐れとはいわば影のようなもので、それ自体に実体はない。しかし、恐れという影を生む、その元凶となっている問題を取り扱わないなら、それは形を変えて何度でもその姿を現すだろう。プライドかもしれない。劣等感や優越感かもしれない。孤独感や無力感、あるいは支配欲かもしれない。恐れがわき上がるとき、そこから逃げるのでなく、それによって顔を出す自分の弱さを見つめよう。弱さのうちにこそ完全に現される、主の恵みが私たちとともにある。
娘のことは、とっくに主に委ねたではないか。恐れに翻弄される必要はない。しかし主は今、この恐れを用いて私を導き、訓練されようとしておられる。
主の恵みに明け渡そう。
◆ナンシー・オートバーグ:『舟から出て、水の上を歩いて…』(いのちのことば社)の著者ジョン・オートバーグの妻で、夫とともに霊的形成について教えている。